17 09 2013
ジル・ドゥルーズ『差異と反復』の読解 三十
序論 反復と差異 十三
反復、自然の法則と道徳法則 二
「モラリストは、《善》と《悪》というカテゴリーをつぎのようなかたちで提示することがある。すなわち、自然の存在としてのわたしたちが、自然に従って反復を行おうとするたびに(快楽の、過去の、情念の反復)、絶望と倦怠以外の結末はもたないような、すでに呪われた、悪魔的な試みのなかに身を投じるのであるが〔以上悪〕。《善》は、反復の成功に関しても、反復の精神性に関しても、その反復の可能性をわたしたちに与えられてくれるだろう。なぜなら、《善》はもはや、自然の法則ではなく義務の法則であるような一つの法則に、そして、道徳的存在としてのわたしたちが同時にその立法者でもある場合にのみその基体〔従うもの〕であるようなそうした法則に、依存しているだろうからである。」
ここも何の問題もないと思います。ドゥルーズの述べていることは至極全うです。
「カントが最高の吟味と呼んでいるものは、いったい何が権利上再生されうるのか。……。彼(カント)は、権利の観点から反復されうるものを規定した。したがって彼は、悪魔的なものとうんざりさせるものを同時に克服したと思っている。……カントの規則正しい毎日の散歩のみならず、カントの伝記作者たちがあんなにも正確に記述したあの反復装置、つまり、カントが誂えたあの見事な靴下留めのなかにすら、若干の道徳主義があるのではなかろうか……。」
ここも何の問題もなく、ドゥルーズの述べていることそのままです。何の解釈もいりません。反復は、日常生活に転がっているのです。その例としてカントがドゥルーズによって俎上に上っています。
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