18 09 2013
ジル・ドゥルーズ『差異と反復』の読解 三十一
序論 反復と差異 十四
反復、自然の法則と道徳法則 三
「しかし意識〔良心〕は両義的なものであって、その両義性とは次のようなことである。すなわち、意識は、道徳法則――自然法則の外にあり、それに優越しており、それとは無関係な道徳法則――を立てることによってでしか、おのれを考えることができないのだが、しかし意識は、自然法則の影像(イマージュ)と範型(モデル)をおのれのうちに復元することによってでしか、道徳法則の適応を考えることができない、ということ。したがって、道徳法則によっては、わたしたちは真の反復を得るどころか、反対に、またもや一般性のなかにとどまってしまうのである。この場合、一般性は、もはや自然の一般性ではなく、第二の自然としての習慣の一般性である。」
ここも何の問題も無いと思います。意識が自然法則の中ででしか脳裡に己を思い描くことはできません。これは、ドゥルーズによれば、反復ではなく、一般性だということです。自然法則の一般性ではなく、習慣という名の一般性と言っています。そして、ドゥルーズは、道徳法則を何とか自然法則よりも優越しているものと定義づけしたいようですが、それは、全く無意味なことに思います。自然を離れて、そもそも私は存在するのかと問えば、それは否、です。
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