7 08 2013
ジル・ドゥルーズ『差異と反復』の読解 十六
はじめに 十六
「……。哲学史は、絵画におけるコラージュの役割にかなり似た役割を演じるべきだと、わたしたちは思われる。哲学史とは、まさに哲学の再生産である。哲学史における報告は、正真正銘の分身として作用しなければならず、その分身本来の最高度の変容を包含しなければならないだろう(口髭をはやしたモナ・リザと同じ意味で、哲学的にひげをはやしたヘーゲル、哲学的に髭をそったマルクスを想像してみよう)。」
ここは、分身という言葉が何か意味を持っているようですが、そのまま読み飛ばして構わないでしょう。
「実在する過去の哲学の書物を、まるで見せかけだけの想像上の書物であるかのようにまんまと語ってしまうことが必要になるだろう。」
この後にボルヘスに言及します。ボルヘスの作品に架空の物語として登場する『ドン・キホーテ』についてのボルヘスの巧妙さに「もっとも厳密な反復が、最高度の差異の相関項としているのである(「セルヴァンテスのテクストとメナールのテクストは、言葉のうえで同一であるが、しかし、後者のほうが、ほとんど無限に豊かである……)」」とドゥルーズは述べています。このボルヘスの手法を哲学に持ち込もうとしていると考えてよさそうです。しかし、それは一歩間違えば、「哲学」に化かされる可能性がある際どい手法に思えます。
ジル・ドゥルーズ『差異と反復』の読解 十五 ジル・ドゥルーズ『差異と反復』の読解 十七