31 07 2013
ジル・ドゥルーズ『差異と反復』の読解 十三
はじめに 十三
「現代哲学のなすべき仕事は、<時間的‐非時間的>、<歴史的-永遠的>、<個別的-普遍的>といつた二者択一を克服することにある。ニーチェに続いて、わたしたちは、時間[時代]と永遠性よりもさらに深遠なるものとして、かの反時代的なものを発見する。」
これは、何の解釈の必要もないでしょう。ドゥルーズの言っている事は、当然と言えば余りに当然なものです。
「いまや哲学は、歴史哲学でもなければ永遠の哲学でもなく、返って、反時代的な、つねにただひたすら反時代的な哲学である。」
これもまた、ドゥルーズに賛同するものです。また、これがドゥルーズの哲学の根本なのかもしれません。
「すなわち、『この時代に逆らって、来るべき時代のために、その来るべき時代を私は望むのだ。』サミュエル・バトラーに続いて、わたしたちは、起源的な「どこにもない」と、置き換えられ、偽装され、変容され、つねに再創造される「ここ-いま」とを同時に意味するものとして、エレホンを発見するのである。もろもろの経験的な個別性でもなければ、抽象的な普遍でもないもの。崩潰した自己として《私ハ思考スル(コギト)》。わたしたちは、どの固体化も非人称的であり、どの特異性も前個体的であるひとつの世界を信じる。」
きょうはここまでにしますが、これは、ドゥルーズの心情告白に違いありません。崩潰した自己とは、現代では、崩潰しない自己は奇跡がない限り存在していないと看做せると言っています。その崩潰した自己が持てるものがコギトです。思考するのみなのです。考えて考えて考え尽くす事で何かが見えるのかもしれないとドゥルーズは言っているのかもしれません。ドゥルーズにとって自己とは崩潰してしまった何かなのです。それが何なのかをこの『差異と反復』は問うているのかもしれません。それは、読み進めばわかることです。唯、「はじめに」でドゥルーズは心情告白をしている事は間違いなさそうです。
ジル・ドゥルーズ『差異と反復』の読解 十二 ジル・ドゥルーズ『差異と反復』の読解 十四