哲学カフェ

哲学書を一つづつ取り上げて、それを時に独善的とも思われる解釈を試みながら、一見難しいものと思われる哲学書の解読を行うものです。

ジル・ドゥルーズ『差異と反復』の読解 十二

はじめに 十二

また長い引用です。

「経験論の秘密は、以下のように言えよう。経験論は、けっして概念に対する反動ではないし、たんに経験にすがることでもない。それどころか、経験論とは未見にして未聞の、このうえなく発狂した概念創造の企てである。経験論は、それは、概念の神秘主義であり、概念の教理主義である。しかし、経験論は、概念をまさに、或る出会いの対象として、<ここ‐いま>として、あるいはむしろエレホンElewhonとして取り扱う。エレホンとは、そこから、異様に配分されたつねに新しいてもろもろの「ここ」と、もろもろの「いま」が尽きることなく湧き出てくる国である。経験論者を措いて、誰がつぎのように言えようか――諸概念は物そのものである。がしかし、「人間学的諸術語」の彼岸において、自由で野性的な状態にある物なのである。私が私の諸概念をつくったり、つくりなおしたり、こわしたりしているが、それは、私の諸概念を反復し、かつ異化=分化する、動く地平から、あるいはつねに脱中心化する中心から、あるいは絶えず置き換えられる周縁から出発してのことである。」

このドゥルーズの言葉は、良く解ります。経験論は、決して概念と水と油の関係にはありません。それよりも、概念の多くは、経験から生まれる事が多いのです。つまり、経験論と概念は、とても親和性があります。そして、ドゥルーズは概念を「物」と断言し、概念を生滅する「物」として述べています。これもまた、良く解る事で、頭蓋内に明滅する概念になる以前の未出現の概念が「私」にとって或る核心として頭蓋内に燦然と輝きだせば、それは、「私」にとって概念となり、それは、また、狂気の沙汰なのです。概念を生滅する事は、狂気なのです。これもまた、身に沁みて解かる事で、或る概念の生滅は、「私」が狂気を持たなければ決して行える生半可なものではないのです。そして、ドゥルーズは、概念の生滅を反復と述べ、これもまた、良く解ります。現在、或る概念を導くには、長く長く長くに亙る堂々巡りを繰り返して後に辛うじて或る概念が生滅するのです。そして、或る概念が生まれるとは、「私」からの異化=分化とドゥルーズ穂は述べていますが、有り体に言えば、「私」の中で、「私」に包摂される事無く、明確に概念として「私」の頭蓋内にあり続ける事をドゥルーズは異化=分化と言っているようです。そして、「私」から 自立する概念は、当然の「私」の中心から離れ行き、つまり、脱中心化として常に、周縁から始まるのです。

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