哲学カフェ

哲学書を一つづつ取り上げて、それを時に独善的とも思われる解釈を試みながら、一見難しいものと思われる哲学書の解読を行うものです。

ジル・ドゥルーズ『差異と反復』の読解 五

はじめに 五

「私たちは、……、このうえなく機械的で極度に常同症(ステレオタイプ)的なもろもろの反復に直面しつつ、そうした諸反復から絶えず幾許かのちっぽけな差異、ヴァリアント、そして変容を引き出している||それが現代における私たちの生だろう。」

この言葉は誰もが日々日常を生きていれば、一度は考えたことがある事です。確かに、ちっぽけな差異に、《吾》は、《異形の吾》を見出そうと躍起になっています。まず、存在ありき。そして、《吾》、変容せずば、何者ぞ、という憤懣に誰もが囚われているのが現代ではないでしょうか。

「しかし、それを逆に見れば、……、機械的で常同症(ステレオタイプ)的な裸の反復を再現しているのである。」

偽装して隠されている反復が、一つの差異の永続的な置き換え、と、ありますが、これは何の事でしょうか。

思うに、高度情報化社会で生まれてすぐに刷り込まれてしまった映像の中における「人間の鋳型」というものが存在し、それは、誰もが持つ「同一」の「人間の型」として決定的な威力を発揮し、人間が存在する以前に「あるべき」存在の型に誰もが晒されているという事を言っているのかもしれません。

また、遺伝子レベルでは、己と他との差はほとんどなく、誰もが殆ど同じ遺伝子を持ち、ほんの少しの差異の存在で己と他とを区別する馬鹿らしさをドゥルーズは嗤っているのかもしれません。つまり、お前は、何者ぞ、と。

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