哲学カフェ

哲学書を一つづつ取り上げて、それを時に独善的とも思われる解釈を試みながら、一見難しいものと思われる哲学書の解読を行うものです。

ジル・ドゥルーズ『差異と反復』の読解 三十三

序論 反復と差異 十六

反復、自然の法則と道徳法則 五

「……。反復が可能であれば、それは自然法則に反しただけでなく道徳法則にも反して可能なのである。周知のように道徳法則を転倒させるには二つのやり方がある。」

さて、道徳法則を転倒させる二つのやり方とは何なのでしょうか。

「……。つまり、道徳法則は、根源的な威力を横領し、あるいは根源的な力(ピユイサンス)を詐取しているセコハンの原理だとして告発される。もうひとつは、それとは逆のやり方であって、道徳法則の転倒は、諸帰結の方に降りてゆけば、そして、どんなつまらないことに対してもばかばかしいと完全に遵守してやればうまくゆく。」

これは一体何のことを言っているのでしょうか。これだけでは、全く曖昧模糊としたままです。先を読みましょう。

「うわべだけで服従する魂は、道徳法則に合わせることによってこそ、首尾よくその法則の裏をかき、その法則が禁じているはずの快楽を味わうことができる。そうしたことは、背理法を用いるすべての証明に、遵法ストライキに、さらにはまた、ヘイコラしてみせて嘲るという或る種のマゾヒスティックな行動によく現われている。」

道徳法則に上辺だけ遵法する事は、マゾヒスティックな快楽があるとドゥルーズは言います。確かに、そうに違いありません。道徳法則に照らして、自己の行為が自虐的だと思うことは、既にマゾヒスティックなのです。上辺だけとはいえ、道徳法則に拘束されています。これはをマゾヒスティックでなくて何でしょうか。

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