哲学カフェ

哲学書を一つづつ取り上げて、それを時に独善的とも思われる解釈を試みながら、一見難しいものと思われる哲学書の解読を行うものです。

エピクロスについて その15

 前回の記事で、エピクロスは「命の終わり」に関して、その時にはわれわれは存在しないので何のものはない、その考えに慣れるべきである。また、善い事も悪い事も全て「感覚」に属しており命の終わりは、その「感覚」の欠如だからだとも主張しています。たしかに、色々な事を経験したり、感じることが出来るのは命が続く限りです。「命の終わり」が来れば、終えた人は何も感じないでしょう。また、精神の最大の快楽である「恐怖からの開放」の為に、エピクロスは考えたのです。そして、恐れを取り除く為に、古代ギリシャの哲学者デモクリトスとレウキッポスという人物の「原子論」を引き続き、命の終わりを「全ての有機物を構成しているアトムの分解にすぎない」と唱え、命の終わりに恐怖する必要はないと唱えました。
 因みに、この「アトム」は「原子」といい、これを「分割不可能」な存在で、物質を構成する最小単位と提示、主張したのが先に書いたエピクロスが受け継いだ二人です。

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