心の行方
太田雅子著『心のありか』をもとにして心というものに一度は疑問を持った人に対して心の「現在」をお伝えします。
心の行方~哲学的、心理学的、科学的に心とは何か~ TOP > 5.論争を振り返って
ここで著者は反因果説と因果説との論争を振り返る事を提案します。
著者は続けます。
一見したところ、反因果説と因果説の論争は、本当のところ論争でないように見えるかもしれません。
反因果説は、理由の働きを因果性と切り離して論じようとはしようといますが、原因を行為の理由の候補から完全に締め出したわけではありません。
この立場は、単に因果性なしでも行為の理由たるゆえんを明らかに出来るということを示しただけで、原因が理由になり得ることを積極的に否定したわけではありません。
他方で、因果説の陣営も、反因果説に対して、「行為の理由を与えることに関して、合理性に出来る事は因果性を使っている」ことを示したに過ぎません。
逸脱因果やアクラシア、あるいは無突発的な行為に対処する方策は不十分であり、むしろ、「日常心理学の範囲内では、行為の合理性に敗れが生じる余地があることを認めるしかにない」というように、問題を回避するような姿勢を見せています。
信原氏と柴田氏の論争の真の争点は、「ある信念と欲求があれば必ず一定の行為を行う」というような行為と理由の関係を因果関係と認めるかどうかであるように思う、と著者は述べます。
さらに続けます。
私たちの目的は、心的なものによる因果的説明を足掛かりにして心的因果を擁護することです。
ここで著者は、読者がずっと思っていたことを述べます。
ここまで議論を追ってきた読者には、因果説と反因果説の論争が心的因果と一体何の関係があるのか、不思議に思う人がいるかもしれません。
そこで、何故因果説の成否がそれほど重要なのかをここで確認しておきます。
それは、「行為の理由は行為の原因である」という因果説のテーゼは「行為を説明するものは行為を引き起こすものである」と読み替えることが可能で、そうすると心による日常的な行動の説明が、心を持ついわば「原因性」の表れである事を示せる見込みが出てくるのです。
第3節の初めで、少なくとも物理主義に立つ限りは、因果的説明を因果関係に結び付ける事は難しいと述べています。
私たちのとるべき方法は3つあると、著者はいいます。
① 因果的説明と因果関係の対応は保持し、心的な説明は物理的な説明にとって代わられるに過ぎないことを認める
② 両者の対応関係そのものを否定する
③ 対応関係のあり方を考えなおす
のいずれかだと述べています。
まず①から追ってゆきますと、心的因果と、脳と身体の間に成り立つ物理的因果関係との衝突――あるいは緊張関係――は解消しますが、その代わり心的因果の問題の存在意義も斥けることになる筈です。
そもそも心的なものと物質的なものが違うからこそ、心的因果の謎が生じるのです。
心的なものが物質的な「モノ」に過ぎないならば、行為の説明をすべてモノに置き換えても全く問題ない筈です。
私たちが現に自分の信念や欲求、意図などをモノに置き換えて行為を説明していない以上――少なくとも通常での状態では、行動の説明は物理的な語彙がなくても事足ります――「そういう説明をした方が話が通じやすいから便利である」ということ以外の強力な要因があるとみなしてよいでしょう、と著者は述べています。
他の選択肢はどうか。
②を選択して因果的説明と因果関係の対応を斥けるとなると、何故、ある種の説明が因果的と呼ばれるのかが理解不能になります。
因果的説明から心的因果の解明をはじめようとする試みにとっては、問題外の選択肢です。
残るのは③ですが、ここで、信原氏と柴田氏の議論を追ってきて得られた一つの考え方を応用できます。
それは、ある信念と欲求が生じたときに特定の行為が生じるという関係が一定して成り立っているならば、その関係を「因果関係」と看做してもよいのか、というものでした。
そして、あるものが生じたときに特定のものが生じることを裏付けるのは、何らかの法則的な要素です。
デイヴィッドソンは因果関係のあるところらには因果法則があると述べましたが、因果的説明を裏付けるのも、法則か、あるいはもっと弱い形の「一般化」です。
心と行動または行為の間に、法則または一般化で述べられるような一定の相関関係がある場合、その関係こそが因果関係の一形態であるとすることで、因果的説明と因果関係の新たな対応の形を示す事が出来るかもしれません。
「ある信念や欲求が生じた後に必ずある一定の行為が生じる」ことを一種の因果関係としてとらえるならば、信念や欲求の存在は、その行為を説明するのみならず、その原因として認められるからです。
それでも、私たちの心的状態のほとんどが物理的に実現されている事は否定のしようがありません。
「心は結局のところ物理的な何かに過ぎないのではないか」という不安が、心の存在信ずる者に重くのしかかってくるのはこのためです。
しかし、「心は結局のところ物理的な何かに過ぎない」という考え方を説明についての話に置き換えてみるとどうなるのでしょうか。
心に関しての言葉で行われた説明は、モノについての言葉に置き換えられません。
置き換えられたその時点で、心的な説明は心的ではなくなります。
だから、「心的な説明は結局のところは物理的説明に過ぎない」という考え方はナンセンスであるのか、または、不可スカイであるように思えます。
物理的な説明に置き換えられない心的な説明を出発点として心独自の力の存在を証明することができれば、先の不安も解消されます。
以上において著者による心的なものに関する問題点を浮き彫りにしました。
まだ、この『心のありか』は五章、六章と続きますが、それは自身で本を買って読んでください。
著者が心的なものをどのように救い出しているかのその格闘の様が解ります。
唯物論に徹すれば、心的なものも物理的な現象に解消されますが、この著者は、それを善しとはせずに、日常で使われる心の扱いが、哲学的な問題である事を明らかにしました。
さらに踏み込んだものが五章と六章です。
その内容はここでは伏せます。