心の行方~哲学的、心理学的、科学的に心とは何か~ TOP > 4.それでも因果性が求められる理由

それでも因果性が求められる理由

私たちは、と新しい節は始まります。

信念や欲求による行為の説明が合理的なものかどうかを確かめるのに、いつも因果関係に訴えるわけではありません。
「このように考えればそのように行動するだろう」という仮説を立て、心理実験などでデータを集めて検証するという手続きを取るならばいざ知らず、私たちにとっては、心的なものと行為との因果関係とはどのようなものか、また、何を探り出せば因果関係を立証したことになるのかに関しては何の共通理解もありません。

そのために、常識的に行為者が持っているあらゆる信念や欲求、そして意図などの集まりが、全体としてある行為の理由を与えるという包括的合理化には、説得力があるのは否めません。

しかし、信原氏が挙げた論点から、ただちに行為の説明に因果性が必要でないと断定するのは、早計です。
信原氏の立場に対して、二つの疑問を呈することができます。
一つは、「包括的合理化」のアイデアが因果性の問題を解決できるのかということで、二つ目は、包括的合理化にとって因果性は本当に余計なものなのかということです。

いかにあげる柴田正良氏の反論が妥当ならば、包括的合理化は行為の説明の問題において因果説より優位にあるとはいえず、包括的合理化と因果説は共存可能で、因果説の方が斥けられることの理由にはなりえないということです。
つまり、包括的合理化と因果説のどちらの問題点においても否定的な無答えが予想されます。

それでも因果性が求められる理由 二

柴田氏の批判は、包括的合理化説そのものの欠陥を指摘するというより、包括合理化説が因果説よりも行為の問題にうまく対処できていないことを示すものです。

まず、同じ一つの行為に対して、異なる信念や欲求の集まりによって別々の包括的合理化がなされた場合、どう手対処するというのでしょうか。

前節の太郎と花子のたとえで言えば、花子を喜ばせたいという欲求の集まりがあり、それらがそれぞれの行為の根拠づけの確かさに関して両方とも同じくらいであったならば、どちらもが太郎の行為の理由となりえます。

確かに信原氏もこのことは念頭にあり、「どちらも包括的な合理化を行うのであれば、どちらの欲求も太郎の行為の理由になる」と明言していて、さらにそのような場合には、「どちらか一方だけが行為の理由である可能性はもはやない」とまで断言しています。

前記のようにしかるべき 信念や欲求があれば、必ず特定の行為をするということが、合理的な行為者であるための必要十分条件であるのですから、この条件を満たすのであれば、理由が複数存在することは何の問題もありません。

確かに、行為のもっとも強い理由は必ずしも一つでなければならないということはありません。
まさしくその行為をした理由を見極めることができる点にあるのではなかったのか。

それでも因果性が求められる理由 三

太郎の場合のように、いづれの理由にもそれを支持する信念や欲求の集まりが存在しているのであれば、どちらか一方だけが行為の理由である可能性が「もはやない」と断言できるのには、「理由によって包括的に合理化される行為を必ず行為者がなすならば、その理由が別々の複数のものであってもすべて『行為をなした理由』でなければならない」という前提が必要だと柴田氏は述べています。

だが、先述の必要十分条件を探しても見つからず、また、私たちの日常的な行為の考え方に照らしても、柴田氏が言う前提が成り立つ余地はありません。

「理由によって包括的に合理化される行為を必ず行為者がなすなら、その理由が別々の複数の者であってもすべて『行為をなした理由』でなければならない」という前提を認めることは、新たな困難をもたらすと柴田氏は述べています。。
その一つが「逸脱因果」と呼ばれるケースにぶつかった場合です。

私たちの日常的な行為を説明する段になると、本来の理由が行為の直接的な理由にならないことがあります。
その例として、先述したエスカレーターでそれとは知らずに誤って姉にぶつかり、突き落としてしまった華絵のケースです。
このようなタイプは「逸脱因果」とよばれます。

それでも因果性が求められる理由 四

本来華絵の行為を引き起こすはずの欲求や信念が存在し、また、それらが生じさせるはずの行為も生じていますが、原因から結果に至る道筋を辿りますと、本来辿るべき道筋を辿ってはいません。
つまり、本来の道筋から「逸脱」しています。

包括的合理化説によれば、華絵は雪子を殺したいという欲求を抱いていて、雪子がいなくなることで自分がより幸せになれるという信念も持っていたので、エスカレーターでの華絵の行為は、雪子を転落させたとするのに十分です。
しかし、この場合、「華絵が雪子を殺した」ものとして看做すことができるでしょうか。
そう見るには 無理があります。

逸脱因果は、明らかに行為の原因となると思われる信念や欲求が存在していたとしても、それが実際に行為した理由にならないという点で、これは因果説の悩みの種になっていました。
しかし、包括的合理化説は、それらをはっきりと行為の理由に含めることにより、意図的な行為と思いがけない行為との境界をあいまいにしてしまいます。
その点で、包括的合理化説は因果説の難題を解決できてはいません。

この見解に対して、包括的合理化説は次のように反論できます。
華絵の殺意が彼女の行為の理由にならないのは、「目の前にいる人間が自分が憎んでいる雪子である」という信念が抜け落ちていて、雪子にぶつかって死なせてしまうことを華絵の信念や欲求が包括的に合理化しているとは言えないからです。
このように考えれば、なぜこのケースが雪子の転落死が生じた理由にならないのかを、原因の概念を使わずに説明できます。

それでも因果性が求められる理由 五

この華絵の場合を「華絵が雪子を殺した」ものとして見ることができないのは、その行為を合理化するのに必要な信念が欠けているためであり、包括的合理化そのものに問題があるわけではないのです。

しかし、次のたとえを見るとこの見解も受け入れがたいものとなります。
華絵は、自分の目の前にいる人間が憎き雪子であることに気づいていた。
今わざとぶつかって突き落とせばうまく雪子を死なせることができるかもしれない。
さあ、実行しようと思った矢先、自分のしようとしていることの恐ろしさに目まいがして身体がふらつき、目の前にいる雪子にぶつかってしまった。
こうなりますと、包括的合理化だけを用いて華絵の振る舞いが「殺人」でないことを示すのは難しいです。

さて、ここまで読んでみると、結局、華絵と雪子の場合など、いくらでもたとえが成立することになり、それをすべて虱潰しに論理的に論破しなければこの包括的合理化説と因果説の問題は、解決しようがないし、また、これは、堂々巡りを繰り返すだけのように思えてなりません。
続きを読みます。
雪子を突き落とさせた華絵の目まいやふらつきは、信念や欲求によって合理化されるというよりも、目まいやふらつきによって引き起こされたとみた方が妥当です。
「xがφを行えばpを実現できると信じており、xがφを行うのに妨げとなるものが何もなければ、pを持ったときにxは必ずφを行う」ということを認めると、包括的に合理化する理由さえあれば、本来行為とは言い難いものまで、行為にされてしまうのです。

これは、至極真っ当な考えです。

それでも因果性が求められる理由 六

一方で、前回の場合とは逆に、本来行為であるはずのものが行為でなくなる場合があります。
それは、ギリシャ語で「意志の弱さ」を意味する「アクラシア」と呼ばれる場合で、これもまた手因果説さの悩ましい問題なのです。

何時も健康であることのありがたさを他人に説いて、タバコは健康を害すると公言している人がタバコを吸うとします。
この場合、健康でありたいという欲求や、タバコを吸わなければ健康になれるという信念は、その人の喫煙を全く合理化していません。
それでは、その人の喫煙は、「合理的行為ではない」のでしょうか。

この疑問に対して「Yes」と答えるひとは多いと思います。確かに健康を信奉していて、喫煙を避けたいと思っているのにタバコを吸うのは合理的とは言えません。
けれども、信原氏によれば、その喫煙する人の喫煙に対する評価は、「合理的な行為ではない」というよりも「行為としてあり得ない」というものになります。

さて、ここから屁理屈がさらに深化します。

けれども、その喫煙する人の合理性は非難されても、その人の喫煙が行為であることまでは否定しなくてもいいのではないでしょうか。
なぜならば、その人の中に「タバコを吸うと気分がよい」「禁煙で変なストレスを受けるよりも、好きなだけタバコを吸いたい」といった信念や欲求があり、それらの方がより包括的に喫煙を合理化するとも言えるのです。
包括的合理化説に従えば、健康を信奉していて、喫煙を避けたいと思っているならば、「禁煙する」というのがその人のとるべき本来の行為であり、今度は、包括的に合理化する理由を持たないが故に、喫煙は「あり得ない」行為ということになります。

それでも因果性が求められる理由 七

しかし、喫煙を合理化する理由は存在します。
健康であることを願い、喫煙を避けたいと思いながら、タバコを吸ってしまうことがあり得ないと看做されるような、包括的合理化説およびその根本をなす合理性の定義はどこか奇妙に見えます、と著者は述べていますが、これは、そもそもからして、奇妙なのは、人間が暮らす日常が合理的でないことからすぐにわかるものです。

信原氏は、「しかるべき信念と欲求があれば特定の行為が生じる」ことを合理的行為の必要十分条件とするのみならず、「行為を包括的に合理化する欲求と信念が存在すれば、必ずその行為が遂行されることになる」ような仕組みを"因果的メカニズム"として認めるよう促します。

ところが柴田氏はそのようなメカニズムの存在が包括的合理化説の難点をさらけ出すことになるのではないかと指摘しています。
それは、信原氏の提唱するものが「因果的」メカニズムであって、むしろ因果説に傾いているような印象を与えるという理由によるものではありません。
このメカニズムが機能しなくとも、包括的合理化説の意義は怪しくなるからです。

ここで著者は、このメカニズムが機能しなかった場合と機能した場合について思考してゆきます。

まず、因果的メカニズムがうまく機能しなかった場合ですが、合理性のレベルで行為の説明が困難になれば、やはり、因果性のレベルで、何が行為を引き起こしたかを探ってゆくより行為の説明を与える有効な手立てはない、と、著者は述べます。

この場合、包括的合理化が圧倒的に因果説よりも優位であるとは言えなくなります、と結論付けています。

それでも因果性が求められる理由 八

他方、メカニズムが順調に機能する場合は、もし、包括的合理化の意味するところが、「ある信念と欲求が存在する場合にその欲求を実現する行為が起こらないことがありえない」というような強い意味を持つものだとするならば、それを信念や欲求、そして行為の間の「因果関係」と呼んではなぜいけないのかと問いかけることが出来る筈です、と著者は述べています。
続けて、これは、デイヴィッドソンが主張した出来事同士のつながりのような形の因果関係とは確かに異なりますが、ある信念と欲求が存在した場合に必ず一定の行為が生ずるならば、それらの行為の発生に関与しているといってよい、と結論付けています。
そして、因果的メカニズムは、信念や欲求がまさしく行為を「引き起こして」いることを示す目印の役割を果たすものではないだろうか、と問いを投げかけます。

先を続けます。

先述した信原氏の立場に対して提出した二つの疑問のうち一番目のもの、すなわち、「包括的合理化」のアイデアが因果説の問題をクリアできているのかに関しては、これまで書いてきたことで答えられると、著者は言います。

その答えを見てゆきます。

ある信念や欲求が、行為者が持つほかのあらゆる信念と欲求にら照らし合わせて行為を包括的に合理化するというだけでは、その信念や欲求が行為を説明するために十分であるとは言えません。
そして、このことは、当然の結果として、第二の疑問にも答えることになります。

行為の説明にとって因果性は本当に余分なものなのか?

アクラシア(意志の弱さ)の場合、最善の判断による行為を妨げるものが何だったのかを明らかにし、ある振舞いが本当に当事者の欲求や信念から生じたものなのか、それとも予期せぬいきさつによるものなのかを判断するのに必要なものは、ある行為が何によってどのように引き起こされるのかというような、原因を視野に入れた因果的な見方なのです。
もちろん、行為の理由は包括的な合理化によっても与えることができますが、それだけでは不十分です。
仮に包括的合理化のアイデアが「ある信念と欲求があれば必ず一定の行為が生じる」という原則から出てきたものであるならば、その関係を合理化関係にとどまらせず、まさしく因果関係であるといってよいのではないか。
少なくとも、信念や欲求による行為の説明は因果的でありうるということは言えるし、行為を説明するものの範囲をさらに広げて、心的なもの全般が行為を因果的に説明することが可能であるということが帰結します、と述べられています。

これは至極当然の帰結といえます。