心の行方~哲学的、心理学的、科学的に心とは何か~ TOP > 3.説明に因果性は必要ではないー「包括的合理化」による因果説批判

説明に因果性は必要ではない

行為の理由とは、行為を合理的にするものであり、つまりは行為を説明するものです。
この理由は、実際に行為を引き起こすものであるというのが、因果説の主張でした。
しかし、理由が心的なものであった場合、因果説によれば、心的なものと行為との間に因果関係が成り立つことになります。
ところが、もし因果説支持者が物理主義者でもあるとしたならば、物理主義に反して心的なものの因果性を直接的な形で視聴することはできないはずです。

デイヴィッドソンもまた、この困難に直面しましたが、彼の立場は因果説との矛盾を生じさせなかったです。
因果関係のあるところには、法則があります。
しかし、心的なものに法則はありません。
それでも意図などの心的出来事が結果となる出来事(行為)を因果的に説明できるのは、それらが一定の仕方でーー正確に言えば物理的にーー記述されたときに因果律が適応されるからです。
このような形でデイヴィッドソンは非法則的一元論を組み立てることにより、困難を切り抜けたのです。

しかし、まだ判然としません。
デイヴィッドソンによれは、因果関係とは、出来事同士に成り立つ個別的な関係です。
しかし、行為の説明においては、因果関係のこの特徴づけは何の役割も果たせないように思います。

説明に因果性は必要ではない 二

行為の理由が行為の原因であるならば、その心的な理由もまた行為と原因ー結果の関係にならなければなりませんが、その道は、「心的なものの非法則性」や「因果性が持つ法則性」によって閉ざされています。
そのために、このことは反因果説の反論のきっかけを与え、行為の説明を因果関係から切り離そうとすね動きが出てきます。

この章の初めに「だから」を含む説明理のすべてが因果的であるとは限らないと書きました。
それでは、「だから」を用いることによって何がなされるのかというと、説明されるものの「合理化」です。

例えば、気専攻のむATMを操作して出て行ってはまた入ったりということを何度も繰り返すという行為は明らかに不審な行為ですが、「一件振込を済ませた後に、また別の振込があったのを思い出し、それが終わって銀行を出ようとしたら、ATMの脇に財布を忘れたことを思い出したからだ」と説明されれば、銀行を出たり入ったりという行為は理にかなったものになります。
しかし、その説明が真実かどうかは別の問題です。

しかしながら、その合理化の際に必要なのは、行為する人が自分の手持ちの信念や欲求全体を考慮して、行為にこもっとも適した説明を与えるだけです。
それ以外に、信念や欲求と行為の間の因果関係を引き合いに出す必要はありません。

説明に因果性は必要ではない 三

以上のことは、「説明する側の事柄が説明される事柄を合理的なものにしているか」という問題と、「説明する側の事柄説明される側の事柄の間に因果関係があるか」を別々に考えた結果です。

「だから」を含む説明が、もし上記のような手持ちの信念や欲求全体を考慮したうえでの合理化のみで成り立つならば、そのような説明にあえて因果的な要素を持ち込む必要はありません。
これに対して、「だから」を用いた説明が因果的であり得ることを実証しようとするならば、何らかの因果的な要素をもとに理由が特定されると主張できるだけの根拠を提出する必要があります。

「そのような根拠はない」と述べているのが信原幸弘です。
彼は、自身の著者で独自の立場から因果説批判を行っています。
前節で行為の因果説の主な特徴を二つ上げましたが、それぞれに対して信原氏は反因果説の観点から反論しています。
第一の特徴は、複数の理由のうちどれが行為をした理由になるのかを決定づけるのは因果関係であるという点に関しては、それは因果関係のレベルで決着をつけるものではないと信原氏は考えています。

以下の例で信原氏がそう考える根拠を示しています。
太郎が花子に花を贈ることで花子を喜ばせたいと思っています。
同時に誕生日のお祝いもしたいと考えています。
花子を喜ばせたい気持ちと、誕生日を祝いたいという気持ちのどちらが、花子に花を贈った理由であるのかを決定づけるのは、それぞれの気持ちと花を贈る行為との間に因果関係があるかどうかとするのが、因果説の主張です。

説明に因果性は必要ではない 四

ところが、太郎が花子の誕生日を勘違いして花子の誕生日の一日前に花を贈って花子の誕生日を祝ったつもりであったとしましょう。
この場合、太郎が花子の誕生日だと思っていた日と実際の日が違っていて、花子の誕生日を祝いたいという太郎の欲求は、それをかなえる行為を引き起こしていません。
行為を引き起こすものこそが理由になるという因果説に沿って考えれば、太郎の欲求は花子の誕生日に花を贈る行為を引き起こしていないので、理由にもなっていません。

しかし、この場合でも花子の誕生日に祝いたいという太郎の欲求を花を贈るという行為の理由と看做せる場合があります。
それは誕生日の一日前に花を贈ることがお祝いになるというが太郎の欲求と考えた場合です。
実際のところ、太郎は花子の誕生日を知っていて、「誕生日利の一日前に花を贈ることがお祝いになる」との信念のもとに、太郎はあえて一日前に花子に花を贈ったとすれば、因果説に沿うことになります。

以上のことは例え話として『心のありか』に出てきますが、少し無理がある例に思えます。
哲学は、いかに論理的デーあるのかが問われるとはいえ、この太郎と花子の例はいただけません。

そして、著者は続けます。

行為につながる直接の理由が何であれるのかを突き止める決め手になるのは、そこで言及されている信念や欲求が実際にその行為を引き起こしたのが問題ではなく、その時行為者が持っているすべての信念と欲求全体に照らし合わせたうえでなお、行為を合理的なものにできるかどうかです。
以上のような行為の合理化のパターンを信原氏は「行為の包括的合理化」と呼んでいます。

説明に因果性は必要ではない 五

行為の説明に必要なことは包括的合理化であって、因果性への配慮ではありません。
その証拠が、太郎と花子の例で、太郎が花子の誕生日のお祝いをしたいという欲求と、誕生日一日前に花子に花を贈った行為とをうまく(?)結びつけられるのが包括的合理化の方です、と著者は書き綴っていますが、この論法には無理があるように思えます。
太郎が花子の誕生日一日前に花を贈ったことの信念が初めに結論ありきで、感心できません。

さらに続けます。

因果性によれば、複数の理由からまさにその行為をした理由を探し出すことができるのは、行為を生じさせるものが何かを示すことによってでありましたが、この点に関しても信原氏は因果関係によらずに対処できると述べています。

信原氏は、「しかるべき信念と欲求があれば、特定の行為が生じる」ということが、合理的な行為者であることの必要十分条件になっているからです。
行為をφとすると「φを行えばpを実現できる」と信じて、行為者がφを行多とします。
一般に言って、pを実現するのに役立つことならば、何であれ行うべきであるという考え方にどこにもおかしな点はありません。
それ故に「φを行えばpが実現する」と信じている人は、pという欲求を持つならばφを実行するはずです。
仮に上記のような欲求および信念を持つにもかかわらずφを行わなかったとすれば、行為者の持っている他の信念や欲求などが妨げになっていると考えられます。
そのような妨げがなくφを行わないとは想像し難く、何らかの妨げがない限り、「xが合理的な人間であり、なおかつxがφを行うのに何ら妨げとなるものがなければ、pを持ったときにxは必ずφを行う」ということになります。

つまり、pという欲求と、「行為φを行えばpを実現できる」という信念が、φを包括的に合理化するということです。

しかし、この包括的合理化とは俄かに受け入れがたい論理に思えて仕方ありません。
例えば、うつ病の人は、何かをしたいという欲求pがあっても行為φは行えません。
また、天邪鬼なことがに全く言及していないということも包括的合理化の欠点ではないのかと思います。