心の行方~哲学的、心理学的、科学的に心とは何か~ TOP > 2.行為の理由は行為の原因である

行為の理由は行為の原因であるーーデイヴィッドソンの「因果説」

1950年代ごろ、ヴィトゲンシュタインに始まり、G・E・М・アンスコムらに受け継がれた「行為の反因果説(以下、反因果説)」の流れにおいて、理由の役割は、行為を正当化するとともにそれとは違った見方で捉えなおす、つまり、「再記述」することによって理解可能な文脈に置くことでした。
前述の「なぜ車道で手を挙げたのか」という問いに対して「タクシーを止めようと思ったから」と答えるとき、「車道で手を挙げる」という行為は、「タクシーを止めようと思ったから」という理由を与えることにより、「タクシーを止める」行為を再記述されます。
行為の原因が理由だとすると、それは行為の再記述の役割を果たすことができません。
もし原因が理由であるならば、原因は結果となる行為に先立って別に存在するのだから、原因によって結果を再記述することはできないはずです。

確かにタクシーに向かって手を挙げた行為は、その時の行為者の脳や神経の働き(行為の原因)によって正当化されるわけでもわかりやすくなるわけでもありません。
それ故に、行為の原因は、理由になり得ません。

しかし、と著者は続けます。

しかし、後のデイヴィッドソンが反論しているように、このことは因果説の致命的な欠陥ではありません。
それというのも、原因を挙げることで行為も再記述できるからです。

行為の理由は行為の原因である 二

例えば、美しいドレスを着を血まみれにして歩いている女性を見かけ、その人に「なぜそんなにドレスを汚してしまったのか?」と尋ねたとします。
彼女は、「人をナイフで刺してきたからだ」と答えます。
彼女は人を刺してその返り血によってドレスを汚したのです。
この「ドレスを汚した」という行為は、誰かをナイフで刺したことによって生じているので、「ナイフで人を刺した」というようにその原因によって再記述され得ます。
まったく原因とは無関係になされる再記述もあるかもしれませんが、原因を挙げることではなされる再記述もある以上、それができないということで因果説が斥けられるいわれはありません。

反因果説に続いて、1960年代から台頭してきた「行為の因果説(以下、因果説)」は、何が行為を生じさせたかを示すことが、「行為のための理由」ではなく、「まさにその行為をした理由」を突き止めることにつながるとする立場です。

例えば、年が明けたある日、私がここ数年音沙汰のない友人にメールで新年の挨拶を送ったとします。
この行為には様々な理由があります。
新年の挨拶をしたい。
私のことを思い出して欲しい。
友人が今どこで何をしているのか知りたい。
いざ私が、友人にメールを送るとき、以上の理由のうちのどの理由によって私はメールを送るという行為を行ったのだろうか?
それを突き止めることに因果説効果を発揮します。

ここまでのことは、とても簡単なことを事例にして、それを「哲学」の視点でひも解いている記述です。
反因果説とか因果説とかの言葉に惑わされないようにさらに読み進めてみます。

行為の理由は行為の原因である 三

先述した事例は皆「行為のための理由」です。
しかし、これらすべてが行為に関与したわけではありません。
メールを送る直前に私がどうしようもない淋しさに襲われたとしたならばどうでしょうか。
こうなると私がメールを送った理由は、多分、「私のことを思い出してわし買った」となるでしょう。
それ以外の理由は「行為のための理由」であっても「まさにその行為をした理由」ではありません。

このように2つに区別する根拠は、実際に行為を引き起こしたのがどちらの信念や欲求であったのかを知ることによってしか、求められません。
ある行為の理由となるものは1つだけとは限りません。
数ある理由のうちで、どの理由から行為が行われたのかは、それぞれの理由と行為を突き合わせてどの理由が行為と一番強く結びついているかをただ漫然と比べたところでわかるはずがありません。

行為の因果説が反因果説よりも優れているのは、行為の理由が、まさにその行為の理由となるのは、理由と行為との間の因果関係に求めることで、同じ一つの行為の理由になり得る信念、または欲求の組が複数あったところで、それらのうち、どれが理由として最も相応しいのかを判断できることです。

行為の因果説は、行為の原因に訴えることにより、その行為とより強く結びついた理由を突き止められると考えます。

行為の理由は行為の原因である 四

因果説の以上の考え方は、数ある理由からその行為の発端になった理由を絞り込むだけではなく、「行為のための理由」が本当にその行為をする理由に適っているかどうかを明らかにすることができます。
行為の理由といわれるからには、その行為にかかわっているのは当然であり、今更そんなことを問うのはおかしなことと思うかもしれません。
しかし、次の逸話を吟味してみれば、行為を行うのに十分な理由があっても、それが必ずしも行為に結びつかない場合があることがわかると思います。

ここに登場するのは、姉の雪子と、彼女の妹の華絵の姉妹です。
華絵は、これまでの人生において何かにつけて自分の邪魔をしてきた姉の雪子を心底憎んでいて前々から「お姉さんさえいなければ」と思っています。
その殺意が抑えられなくなった華絵は、高層ビルの下りのエスカレーターに乗ろうとしている雪子を偶然見かけ、人ごみに紛れて雪子を突き飛ばします。
雪子はエスカレーターから転げ落ちて、頭を強打し即死してしまいました。
この場合、華絵の殺意が雪子殺害の原因になっているということに異論はないと思います。

それでは次の場合はどうでしょうか。
常日頃から雪子への殺意が頭から離れないまま、心ここに非ずだった華絵は、ぼんやりしていて高層ビルの下りエスカレーターで前に乗っていた人にぶつかってしまい、その人は頭を強打して即死してしまいます。
突き飛ばしてしまったその人こそ雪子なのでした。
この場合も華絵は、雪子を死なせています。

行為の理由は行為の原因である 五

先述の雪子の死亡で問題なのは、華絵の殺意ーーもう少し詳しく言えば、「雪子さえいなければ自分が幸せになれる」という信念や「雪子をこの世から消してしまいたい」という欲求などすべて集まったものーーが、雪子を死なせた行為の理由になっているかどうかです。
二つのケースの最大の違いは、前者が「華絵は雪子への殺意ゆえに彼女を突き飛ばした」と表現するのが適切であるのに対して、後者はたとえ雪子を突き飛ばすのに十分な理由があったとしてもそのようには表現できないことです。

それでは、何かの理由「ゆえに」行為をしたといえる根拠を与えるのでしょうか。
因果説によれば、その「ゆえに」の根拠を与える者こそ因果関係に他なりません。

行為の理由は、様々です。
その行為をした理由と行為が直接つながらない理由を区別するのは、その行為の理由が行為の「引き金になった」かどうかで決まります。
理由を行為の理由にするのは因果関係であるというのが、因果説のカギなのです。

以上のことは日常生活を送っていれば、大なり小なり普通にあることで、自分の意思とは関係なく、行為が行われてしまう場合が多いのではないかと思います。
自身の思いとは関係なく、ある出来事が起こるのがこの世の成り立ちといえるのでしないでしょうか。