心の行方
太田雅子著『心のありか』をもとにして心というものに一度は疑問を持った人に対して心の「現在」をお伝えします。
心の行方~哲学的、心理学的、科学的に心とは何か~ TOP > 1.行為の「理由」と「原因」
ここから著者は言葉を選んで慎重に書き進めて行きます。
それでは、それを追ってゆきます。
当分の間、因果的説明の形式を「~だから」「~ので」「…なのは~だからである」(英語ではbecause)を含む文、およびその形に書き直せることができる文で表わしてみます。
当然、このような文には因果関係を表わさない分が数多く存在します。
たとえば、「コーヒーの甘みが足りなかったので砂糖を足した」というとき、「ので」より前の部分は砂糖を足したことの理由であって、原因ではありません。
接続詞「だから」の直前の節が原因を表わしているかどうかを判断する事は難しいです。
しかし、「だから」の前の節が述べているのが出来事であるか状態であるか、主語を受けるものが同士であるか形容詞であるかに着目すれば、おおよその見当は付きそうです。
「コーヒーの甘みが足りない」「バラの花が赤かった」などの事柄は物事の「状態」であり、それだけでは他の物事を引き起こす力を持つとは言い難いです。
それに対して、「コーヒーをこぼした」「バラのとげが刺さった」というように直前の節が同士でで終わる場合、それらの文はで表わされた事態は、周囲のものや人に対して何らかの影響力を持つ可能性を暗示しています。
コーヒーをこぼせば近くにいる人の服を汚すかもしれないし、バラのとげが刺されば指がけがする事もあります。
このとき、接続詞「だから」「ので」などは、その前の節で述べられている事と、その後にくる事柄との因果的な形で結びつける働きをすると考えられる事ができます。
しかし、先述の考え方を即座に心的な説明に当て嵌め、それが因果的説明であるということをもって心的因果の立場の手段とする事はできません。
それというのも、「だから」の因果的意味合いが、その前に来る節で表わされているものがもつ物事への影響力によるのだとしても、心的なものの場合、まさにその影響力を持っているかどうかは不明なままであるからです。
それらに影響力があるとした時点で、この議論は論点先取となってしまいます。
心的な説明が因果的である事から心的なものが原因になり得ることを示すプランを実行するためには、「だから」を含む文の特徴にとどまらず、理由を表わす「だから」と、原因を表わす「だから」の本質的な違いはどこから来るのかに迫る必要があります。
と、著者は言葉の扱い方で、「心」に迫ろうとしています。
これは、現代哲学は、言語学的な側面を持っている事から当然な道筋です。
さて、著者はどのように「心」に迫ってゆくのか、見てみましょう。
以下のような場合を考えます。
車道に向かって手を挙げたとします。
なぜ手を挙げたのでしょう。
つまり、手を挙げた「理由」は何でしょうか。
では、手を挙げた「原因」を尋ねられたならどう答えるでしょうか。
原因は「タクシーを止めたいと思った事」よりも、その時の脳や神経、および筋肉の働きの方であるように思えるかもしれません。
行動が生じるには何らかの「原因」がある筈です。
しかしその原因は、必ずしも行動の理由にはなりません。
「なぜ車道に向かって手を挙げたのか?」と尋ねてきた相手に向かって「私の脳や神経がこれこれというように反応したからだ」と答えたとしても、「だから、そういう脳や神経の反応がどうして車道に向かって手を挙げさせたことの理由になるんですか?」と返されるでしょう。
逆に言えば、行動の理由は、行動の原因でなくともよいことになります。
心的説明からの心的因果の立証を試みるにあたっては、「原因」と「理由」との乖離に目を向けなければなりません。
著者は続けます。
この乖離は、理由の持つ二つの側面、つまり、「合理性」と「因果性」の違いからきます。
「合理性」という言葉は、「あの人の計画には合理性がない」というような意味でよく使われます。
ここでは、字義の通り、「理にかなった(理屈に合った)」わかりやすいものであるという意味です。
一方、「因果性」とは、行動を生じさせることであり、あるものと別のものとが原因と結果の関係にあるということです。
合理性が必ずしも因果性を伴うものではないということは、とりわけ、物理主義者においては当然の帰結です。
物理主義では、行動とは、身体のモノの運動です。
〈閉包性〉によれば、モノにはそれを生じさせるのに十分なモノが原因としてあります。