心の行方
太田雅子著『心のありか』をもとにして心というものに一度は疑問を持った人に対して心の「現在」をお伝えします。
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著者は続けます。
ロブとマクドナルドの立場には、心的性質の因果的関連性が詰まる所、物理的性質の因果的関連性、もしくは因果的効力に依存するが故に、心的性質が何故心的なものとして行動などの結果の発生に関与するのか明らかに出来ていないという共通点があります。
どちらの立場も基本にあるのは、物理主義である以上、当然の帰結と言えます。
ある心的性質が物理的性質と同一であるとするか(ロブ)、または心的性質の実例化が物理的性質の実例化によって生じるとするのか(マクドナルドら)、どちらの立場をとるにしても、心的なものの独自の特性を発揮出来ると考えのは難しいように思えます、と著者は述べていますが、妥当なところでしょう。
ロブもマクドナルドらもともに「心」の実相には近づけなかったということです。
とはいえ、タイプであれトロープであれ、心的性質がそれ自体、それのみで何かを生じさせるという考え方は、古典的な二元論に逆戻りするような印象を与えます。
心的性質は何かを生じさせる因果的な働きをなし得ず、物理的性質と同一であったりそれに依存することによって辛うじてそのような外観を保っているに過ぎないとしたら、心的性質の因果的関連性を確かなものとしたところで、それでは本物の心的因果性とは呼べないのではないのか、という疑念がわいてきます。
たとえ、物理主義の側に付くにしても、心的な説明の特性、つまり、心的にものへの言及によって行動に理由が容易になるという特性を利点と認める事は出来るでしょう。
説明の中での因果的関連性を持つ性質に言及する事で、私たちは因果的説明においても結果を合理化します。
これは、性質の因果的関連性のまた別の働きです。
この章で、性質としての心の因果性を立証するのに有力であると目された「トロープ説」につい考察してきましたが、それさえも、性質が心的なものとして因果的に作用する事ができるかという問いから遁れられないことが明らかになりました。
私たちは、日常生活で、とりわけ行動の説明の場面において、信念や意図や感情などを原因としています。
そこには、最も素朴な形で心的因果が存在します。
そこで次章以降は私たちの心的説明を手掛かりとして心の因果性を守ろうとする試みに心的因果のわずかな望みをつないで行きたいと思います。
仮に、心的説明が心の因果性を反映しているという私たちの常識的な感覚が正しいのであれば、心的説明は因果的説明でもある筈です。
したがって、この感覚を擁護するために、心的説明が因果的では全くないとする立場にどう対処すべきか示す必要があります。