心の行方~哲学的、心理学的、科学的に心とは何か~ TOP > 5.マクドナルドなどの提案

マクドナルドらの提案 一

4節でのマクドナルドらのトロープ説批判とともに、マクドナルドらは、心的因果の一つのモデルとして次のような二段階からなる代替案を提出しています、と著者は続けます。
それでは、その二段階からなる代替案を見てみましょう。

トロープ説が心的因果の問題解決にならないと思われるのは、心が心的なものとして影響力を持ってないのではないかという「"として"問題」は斥けられないからです、と著者は言います。
それではどのようにすれば、心が心的なものとして因果性を持つかを立証できるのかに焦点を当てて、マクドナルドらは解決策を提示します。

マクドナルド等の解決策の基本は、デイヴィッドソンとは異なる「出来事」です。
デイヴィッドソンの出来事が、それ自体個別的な存在であるのに対して、マクドナルドらの出来事は、「ある性質の具体例」としてのものです。
たとえば、何かを意図するという出来事は、何かを意図するという、心らにまつわる性質の一例となる限りでは「心的出来事」ですが、脳のどこかの部位の興奮という物理的性質の一例となれば、それは「物理的出来事」なのです。

出来事の定義を以上のように定めた後に、マクドナルドらは、心的性質が行動に因果的に関与するためには、①心的性質の実例となる出来事が存在し、②その出来事が心的出来事の実例になり得るのは、特定の物理的性質の実例となる事によってである、という二つのことが成り立たなければならないと述べています。

マクドナルドらの提案 二

例えば、私が友人と待つ合わせの約束を思い出すという心的出来事が、待ち合わせの場所へ出かけさせるという物理的出来事をどうやって生じさせるのかを、マクドナルドらの見方を重ね合わせる事を著者は試みています。
それを追ってゆきます。

この場合、私が友人との約束を思い出すという出来事は、私が出かけるという出来事を引き起こしています。
従来の物理的主義的な見方から、私が友人との待ち合わせの約束を思い出すということは、脳の記憶中枢が一定の仕方で活性化したに過ぎず、実際、私が待ち合わせ場所に出かけるという行動を生じさせるこの記憶中枢の反応なのですから、友人との約束を思い出すという心の働きは行動に関して何の影響も及ぼしていないのではないか、と言われそうです。

しかし、心的出来事がある物理的性質の実例となる事によってその心的性質の実例にもなるというマクドナルドらのモデルでは、ある出来事がどのような心的性質の実例となるかは、どうの物理的性質の実例によって決まります。

上記の例でいえば、私が友人との待ち合わせの約束を思い出すという出来事は、脳の記憶中枢が活性化しているという――私が出かけるという行動を引き起こしています――性質の実例となる事によって、約束を思い出すという心的性質の実例となっています。

マクドナルドらの提案 三

マクドナルドらのモデルでは、物理主義のもとでも心の働きは無駄にはならないのです。

それは何故か?
更に読み進めて行きます。

マクドナルドらの立場は、何故心的性質が行動に対して因果的に関連し得るかという、トロープ説では明確な答えを示していなかった問題にもはっきりと答えていて、

「心的性質の実例となる出来事が、何らかの物理的性質の実例になるから」

という答えです。

この答えによると、出来事の心的性質の実例化と物理的性質の実例化との間にそのような相関関係があるとき、結果となる出来事は、心的性質と物理的性質とによって過剰決定されておらず、それらは因果的力を争うことがないということです。
また、待ち合わせの場所に出かけるという行動は、記憶中枢が活性化して身体に信号を伝達するという物理的性質によって生じるので、因果的排除問題を免れるということです。
さて、マクドナルドらの提案は、「"として"問題」の困難を乗り切られるのであろうか、と著者も懐疑的に見ている事が暗示されます。

続きを読みます。

その点に関しては、やはり肯定的には評価し難い面がある、と著者は言います。
これは私も同じです。

更に読み続けます。

出来事がある心的性質の実例になっているときに必ず何らかの物理的性質の実例になっているという彼らの主張は、心的性質が物理的性質に依存する点でスーパーヴィーニエンスの関係を想起させます。
ということは、例のスーパーヴィーニエンス論法によって心的なものが因果的に無力化されてしまうのではないかという疑念が再び頭を擡げ始めるのです。

マクドナルドらの提案 四

マクドナルドらの言うように、心的性質が行動に因果的に関与できるのが、それを担う出来事が物理的性質の実例でもある事によるとすねならば、心的性質性質がどのようになろうともまた、当の出来事が心的性質の実例となっているかどうかとは関係なく、それが持つ物理的性質が結果の発生に関わりさえすれば、結果が生じることになり、再び心的性質の因果的関連性が疑われることになります。
そうなると、マクドナルドらの立場は、「"として"問題」の解消に何の役にも立たないということになります。

他方、マクドナルドらは、性質が因果的関連性を持つためには何が必要かを探り、そこから心的因果の立証を試みています。
これもまた、性質の因果的関連性に注目した立証なので、それが上手くいっているのかどうかを検討してみる事には意義があります。
マクドナルドらによれば、性質が因果的関連性を持つ条件とは、

(1)因果的効力を持つ実例を持っている事
(2)因果法則を形成できる事

です。

以上の条件は、心的性質に当て嵌まるのだろうか、と著者は疑問を投げかけます。

「心的性質の実例である出来事が物理的性質の実例――因果的効力を持った実例――でもある」というマクドナルドらの特徴づけにより、(1)は問題なく当て嵌まります。
一方、心と行動の間には厳密な法則的関係はないので、――「何らかの心的状態が発生すれば、ある種の行動が起きる」という類の一般化によって表わされるような関係ならばありますが――(2)は当て嵌まりません。
心的なものが法則的なものではない事はデイヴィッドソンによって既に指摘されています。
しかし、(2)を満たさない事による心的性質への影響は、さほどではないと、マクドナルドらは考えています。

マクドナルドらの提案 五

何故ならと、著者は続けます。
前述の(2)を緩めた形である以下の条件が当て嵌まるからだと。

(3)何らかのタイプの法則にかんして法則的であること

マクドナルドらが挙げている例で説明しますと、ある物質が爆発する原因となった出来事は、熱伝導性と電気伝導性という二つの性質を同時に持っています。
それらの性質は両方とも爆発との間に法則を形成し得るのです。
しかし、場゜九発に直接に関与したとされるのは、通常は熱伝導性の法であり、電気伝導性ではありません。
この場合、「あるものに電気が通ると爆発する」という法則よりも「あるものを熱すると爆発する」という法則が優先されます――確かに、ある種の物質に電気が通れば爆発する事もあるので、一概に電気伝導性が爆発の要因になっていないとは言い切れません。
しかし、洋服の静電気で爆発が起こる事がないように、電気が通っただけでは、大抵の場合は爆発しません。
ある限度以上の加熱の方が、爆発を危険性が高いという判断は妥当です――。

原因が結果に対して因果的に関連するということは、原因と結果の間の大まかな一般化関係に由来しますが、そのような一般化が可能であるのは、マクドナルドらによれば、「世界における性質同士の関係のパターンやネットワーク」によるとのことです。

一般化は法則に言及した(2)によって与えられますが、性質同士のパターンやネットワークに照らして結果を合理的に理解出来るものにするにするためには、(2)の代わりに(3)が要求されます。

マクドナルドらの提案 六

法則を形成しないはずの心的性質も、条件(1)と(3)を満たす事によって因果的関連性を持つ事ができるのです。

しかし、と著者は続けます。

しかし、因果的関連性の条件に焦点を当てたところで、問題解決が前進するとは思われないと。
それは、条件(3)が具体的にどのような形で様々な事例に当て嵌められるのか今一つはっきりとしないからです。

心的性質は、無条件に法則の実例にはなり得ません。
先述の電気伝導性のように、因果的効力のある実例を持ち、因果法則に現われる性質でありながら、結果のタイプ次第では因果的に関連しなくなる実例があるでしょう。
(3)を因果的関連性のための条件とするならば、ある結果のタイプに関する因果的関連性の有無がどういうふうに決まるのかを明らかにしなければならないでしょう。
何故、爆発に関与するのが電気伝導性でなく熱伝導性なのか。
何故、夜中に冷蔵庫を漁る行動らに因果的に関与するのがのどが渇いた感じであって脳の状態ではないのか。
マクドナルドらは、(3)の根拠を性質同士の関係のパターンに求めていますが、その場合でも、電気伝導性よりも熱伝導性の方が、また、特定の脳状態の変化よりものどの渇きの感覚の方が結果の発生にとってより適切である事を立証するのは易しくはありません。
中でも、心的性質に関しては、法則を形成しやすい物理的な性質の方が、因果的な面で優位となり、心的なものとしての心的性質による因果的な影響力はむしろ立証しにくくなるのではないでしょうか。
心的なものがどうして行動に因果的に関わるのか問いかけたとき、「心的性質と行動との間にそのような因果的ネットワークやパターンが成り立っているから」というのでは、応えとして不十分です。