心の行方~哲学的、心理学的、科学的に心とは何か~ TOP > 4.立ちふさがる「"として"問題」

立ちふさがる「"として"問題」 一

物理主義者でありながら心の存在を否定する気のない人には悩みの種である数々の困難を取り除いてくれるトロープ説はとてもありがたいものに映るかもしれません。
それでもトロープ説は心的因果にとって、ロブが指摘する程に万能ではありません。
これは、ある立場が万能でないという事は、全ての哲学的議論に当て嵌まる事です。

第一に生じてくるのは、トロープを導入しても結局、それが心的なもの「として」因果的力を発揮できないのでしたなら、心的因果に対する疑念から逃れられないのではないか、という不安かもしれません。

心的なトロープが物理的トロープと同一であることによって何かを引き起こすというこの主張は、かつて、デイヴィドソンに向けられたのと同じような批判にさらされそうです。
デイヴィドソンの場合には、心的出来事は心的なものとしてではなく物理的なものとして初めて因果的作用を持ち得るので、それ故に心に本当の因果的な力が宿っている事にならないのではないかという点が、批判の対象になったのです。
それと同じように、ロブの場合にも、心的トロープと物理的トロープとが同一である事によって結果に対する因果的関連性を得るなら、心的トロープそのものに因果的関連性が備わっているとは言えないのではないか、という疑問が提出されます。

立ちふさがる「"として"問題」 二

以上のような問題をロブは「"として"問題(qua-problem)」と呼んでいます。
しかし、ロブは、全くこの問題を意に介さないのです。
ロブによれば、出来事を単位としたデイヴィッドソンの非法則的一元論がこの問題にぶつかるにせよ、性質はこれを免れる事が可能なのです。

出来事はさまざまな性質を持ち、それらは、出来事が生じた状況や文脈により、因果的に関連したりしなかっりします。
そのため、「出来事のどの性質が結果に対して因果的関連性を持つか?」と問うことには意味がある、と著者は言います。
そして、この事は先述のガラスが割れたのは、ソプラノ歌手の声の手高さなのか、それとも歌の内容によるものなのかを問うことに意味があるとも言います。

「出来事のどの性質が結果に対して因果的関連性を持つか?」と問うことは「出来事はどのようなものとして結果を引き起こすのか?」と言い換える事ができます。
これは、解かりますね。
哲学的思考はこのように還元しながら問いの本質を明らかにする事にあります。
それが、哲学の醍醐味の一つです。

そして、著者は次のように続けます。

けれども、このような問いがなされることは、つまり、因果的関連性のありかを出来事に求める限り、何によってその出来事が結果に対する因果的作用を持ち得るのかが常に問われている事を意味します。

立ちふさがる「"として"問題」 三

心的なものが何かを引き起こす事を擁護したい立場にとっては、心的な出来事の心的でない側面によって結果が引き起こされる可能性が残っている――しかもそのために心的な側面の持つ因果的関連性が排除される恐れがある――のは望ましくない状況です。

さて、無ここまで書き綴ってきましたが、何の事をこのレポートは考察しているのかもう一度振り返ります。
問題となっているのは、「心」です。
この心が果たして、何かを引き起こす原因になり、そして結果を引き起こす事をずっと考えてきたわけですが、今は、心的な出来事が心以外のことで何かが引き起こされ、そして結果が寝齎される事が問題となっています。
果たして、「心」とは何なのでしょうか。
これが、このレポートの言いたい事の全てです。
著者は続けます。

トロープ説はこの状況を打破するのに効果を発揮します。
出来事は、何らかの対象とそれがもつ性質から成り立っていますが、心的トロープは、丸々性質そのもので、現に、トロープはトロープ自体で結果に対して何らかの因果的関連性を担っています。
それゆえに、「トロープの何によって結果が起きるのか?」と問うことに意味がありません。
出来事について生じる「"として"問題」を性質らに持ち込むのは全くの見当外れとロブは言っています。

立ちふさがる「"として"問題」 四

以上のように、心的トロープを用いた一連の試みは「"として"問題」の対処にはもってこいのもののように思われましたが、トロープ説は、ロブが考えているほど簡単には「"として"問題」から遁れられません。
それは、「心的トロープと物理的トロープが同一ということはどういうことか」に関係します。
これまでに何度となく個の言い回しを用いてきたにも関わらず、それが正確にどういうことを意味するのかを説明していませんでした。
それというのも、ロブ自身がそれを詳しい形で示していないからです。

ロブによれば、この同一性が初めから前提とされているわけではなく、むしろ、『個別的なものとしての「性質」』の章での(1)~(3)がともに成立する事によってトロープ同士の同一性が確かめられます。
しかし、トロープ説が心的因果の問題解決に成功しているかどうかのカギを握るのが、心的トロープと物理的トロープの同一性にある以上、それらがいかに同一であるのか、それが同一であるというのを棚上げにしたまま、トロープ説の心的因果の問題解決に進展をもたらすかどうかの判断はできません。

そこで、ロブが、想像したと考えられるトロープの同一性のパターンをあらかじめ想定したうえで、トロープ説による心的因果の立証が成功しているかどうかを見てみたいと思います。

立ちふさがる「"として"問題」 五

それでは著者がどの様にロブを判断しているのか見て行きましょう。

一般に、タイプの違う二つのものが、個別的に同じものだというのが一体どういうことなのかを想像してみますと、多分、以下のようになる筈です。

AとBが同一だという時、AとBははじめから同じだと看做されているわけではありません。
はじめから同じだと分かっているならば、それを別々の名前で呼ぶ必要はありません。
私たちは、当初、「A」と名指しされたものは「B」と名指されるものとは別だと思っています。

「AとBは同一である」が意味するのは、当初、違うものと思われたものが、また、別のものとして取り出されたもの同士が実は同一だと解かった事を言います。

同一性の説明でよく引き合いに出されるのが、「宵の明星」と「明けの明星」の話があります。
昔は日没後に西の空に見える「宵の明星」と明け方に東の空に見える「明けの明星」は別のものだと思われていました。
しかし、科学が進歩する事で、「宵の明星」と「明けの明星」が同一の金星だということが明らかになりました。

このような場合に「宵の明星と明けの明星は同一である」と言います。

それならば、何故同じものだと解かっているものを別の呼び方をするのかが疑問に思うはずです。
異なる呼び名が付くのは、その同じものが持つどの性質に着目するかによります。

立ちふさがる「"として"問題」 六

心的トロープと物理的トロープの場合も金星と同じような事が言え、トロープの同一性とはどういうものか理解できなくもありません。
心的トロープと物理的トロープは、タイプに基づいて別々に認識されていたために異なるものと看做されていましたが、実際は同じ一つのものだったのです。

しかし、以上のような理解が成り立つとして、そのことは心の因果的役割を確保してくれるものではありません。
心的トロープが心的なものとして特定されるのは、それが心的タイプに属するからです。
心的トロープが物理的なもののタイプの存在者として特定されるのです。
しかし、そのとき、心的トロープが心的なゆえんはそれが属するタイプにあり、トロープ自身にない事になります。

そうすると、トロープ自体にいくら因果的な力を要求しても、結局は心がなし得る働きを明らかに出来ないのではないでしょうか、と著者は問いかけています。
しばらく著者の言葉を追いかけてみます。

ロブの思惑とは別に「"として"問題」をそう簡単に避けては通れないのです。

シンシア・マクドナルドとグラハム・マクドナルドは、ロブの言うトロープの同一性とは何であるのか、粘り強く追及した論文を発表していますが、彼らによるアプローチは、まさにこの通りの難点をあらわにしています。
彼らによれば、性質によるトロープの位置づけには二つの考え方があり、そのどちらをとっても、心的トロープと物理的トロープの同一性は、心的性質が心的なものとして行動を引き起こす保証はできないということです。

トロープ説は、心的因果を救ってくれないというのがマクドナルドらの見方です。

立ちふさがる「"として"問題」 七

更に著者の言葉を追います。

ロブによれば、「性質」という言葉は、トロープそのものを指すこともあれば、トロープの集まりを指す事もあります。
ロブが性質の因果的関連性について述べるとき、そこで想定されている「性質」は個々のトロープを意味します。
しかし、性質の因果的関連性に関しては、また別の捉え方があります。
それは、数々のトロープからなる性質が因果的関連性を持つというものです。

さて、ここまでみて来て、何を言っているのか込み入ってきましたが、ここでは読み飛ばしてゆきます。
詳しい説明は後ほど出てきますので。

以上のいづれの見方も心的性質の因果的関連性を立証できません。
ではそれは何故なのでしょうか。著者の言葉を追ってゆきます。

(a)性質がトロープの集まりの場合

ここにトロープaとトロープbがあるものとします。
トロープaはそれと類似したトロープ同士が集まってできたAというグループに属しています。
同じく、トロープbはグループBに属し、性質が、トロープの集まりで出来ていると想定するならば、

「トロープaとトロープbが同一である」

という状態は、

「あるトロープaはグループAにもグループBにも属する」

として理解されます。

例えば、あるものが水に溶けるということは、それが特定の分子構造を持つということで、その分子構造は、XYZという形をしているかもしれません。

立ちふさがる「"として"問題」 八

(a)性質がトロープの集まりの場合 二

著者は更に続けます。

「水に溶ける」という性質のトロープが「XYZである」という性質のトロープに等しいとするならば、そのトロープは「水に溶ける」という性質の集まりと「XYZという分子構造を持つ」という性質の集まりの両方に属する事になります。

この考え方をすると、「心的トロープと物理的トロープが同一であるということは、心的トロープが心的に那ものの集まりにも物理的なものの集まりにも属する」ということになります。

さて、此処まで読んでくると何が言いたいのかがはっきりとしてきました。
つまり、心は、心的でもありものでもあるというように著者は問題を整理しました。
さあ、更に読み進めます。

しかし、心的トロープと物理的トロープとの同一を以上のように解釈し、それを心的因果の議論に応用すると、「心的トロープが物理的なものの集まりに属する事によって、結果の発生に因果的に関係する」と主張する事となり、心的なものの働きは物理的なもののおかげで生じると述べている事と同じになり、そうすると、心的なトロープが心的なものとして何かを引き起こせるかどうかに関して、トロープ説が何事かを述べるのは難しくなります。

つまり、性質がトロープの集まりは難破したということです。

立ちふさがる「"として"問題」 九

(b)トロープが性質そのものの場合

次に、トロープが何らかの集まりに属する事ではなく、それ自体で因果的な力を持つかどうかを見てみましょう、と著者は続けます。

ロブは、こちらの見地に立ってトロープの因果的関連性を主張していますが、マクドナルドらによれば、ロブの試みは失敗に終わるといいます。
ある出来事cが出来事eを引き起こすとします。
cはМiという心的性質のトロープを持っていると同時に、Piという物理的性質トロープを持っています(Мiは心的なもののグループМの一メンバーである事を示しています。
同様に、Piは物理的なものの集まりのPのメンバーの一つである事を表わしています)。
しかし、「cがМiを持つ事」という形の出来事が「cがPiを持つ事」という出来事と全く同じものであるならば、eがМiによって生じたのかPiによって生じたのかは、c自体の特徴をいくら調べたとしても解かりません。

「トロープ自体が単独で因果的関連性を持ち、それ以外に因果性の担い手を見つけようがないので、"として"問題は真の問題ではない」というのが、ロブの見解です。

しかし、マクドナルドらの分析によれば、心的トロープと物理的トロープとが同じものである事を要求する限り、トロープ説は依然として「"として"問題」に悩まされることになるというものです。

立ちふさがる「"として"問題」 十

(b)トロープが性質そのものの場合 二

因果的関連性をトロープの集まりとしての性質に帰す方法では、心的なものの因果性は物理的な性質によって取って代わられてしまうこと間違いなしです。
また、他方で、個別的なトロープとしての性質が因果的関連性を持つとしても、そもそも結果の発生に心的トロープと物理的トロープのどちらが関与しているのかはっきりとはしません、と著者は言います。

そして、著者は、どちらにせよ、トロープは心的因果の問題を解決する事は出来ないと結論付けています。
その理由として、「"として"問題」が問題にならないとしても、それは答える必要がないとしても、寧ろ答えようがないとも述べています。

更に著者は続けます。

ロブの提案は、もっともトロープ説の応用の一つとして心的因果を熱かっただけです。
その問題の解決に有用でないからと言ってトロープ説を批判するのは、的外れです。
そして、著者は断言します。

それを承知の上であえて、トロープ説にはくみしない事を断言いたしますと。

その最大の理由は、マクドナルド等が指摘した困難にもありますが、もう一つは、後ほど書かれる因果的説明のアプローチがトロープの個別性と相容れないからだとのことです。

心的な因果的説明は、法則類似的な――法則ほど厳密性を持たない――基づいてなされます。

立ちふさがる「"として"問題」 十一

(b)トロープが性質そのものの場合 三

その法則が扱うのは、事物の特徴を一般化したものとしての性質であって、それは個別的性質ではありません。
例え行動などの結果に対して、心的トロープが因果的に関連し得る事例が一定の数だけ集められて、それらに共通して当て嵌まる性質を取り出すと、その性質に何らかの法則性が関与している事が解かるかもしれません。
しかし、その法則性に基づいて因果的説明が行われても、そこでの性質は、最早、個別的黄なものではなく、タイプとしての性質に変わっています。

つまり、甲道の因果的説明を軸にして心的因果を考えて行くと、トロープ説は、あまり助けにならないのです、と著者は結論付けています。

更に続けます。

心の因果性を主張する同期の根底にあるのは、心を原因と看做した説明が問題なく行われているという現実があります。
反対に、心的なものによる行動の説明に因果的な含みが全くないという事が、既に、私たちの間で共通理解として成り立っているならば、あえて、心が因果性を持つ事を主張する必要すら感じない筈です。
心的性質が何故、行動に因果的に関与するのかという問いに誰もが納得のゆく解答が与えられるならば、それは、私たちの日常的な行動の説明が、因果的要素を含んでいるという素朴な誰もが納得出来るものである事が望ましいのです。

この章の最期は次のようにして締めくくられます。

「心的因果」の中核をなしているとおもわれる、心的説明の因果的な意味合いに結び付けるのが難しい性質の形而上学は、存在論としては優れていても、少なくとも心的因果への応用には図らずも限界があるといわざるを得ない、と締めくくっています。

簡単に言えば、日常で何気なく使っている「心」という言葉にぴたりとまでは言わなくとも、「あっ、これだ」と胸奥で感嘆の声を上げる哲学的なる「心」の定義が、日常感覚に即しているものでなければ、その言説は、私たちに受け入れられるには、限界がある、ということだと思います。