心の行方
太田雅子著『心のありか』をもとにして心というものに一度は疑問を持った人に対して心の「現在」をお伝えします。
心の行方~哲学的、心理学的、科学的に心とは何か~ TOP > 1.機能はうまく還元出来るか
キムの立場に異議を唱える方法は一つではありません。
前節で述べられた〈閉包性〉へのアプローチは、キムへの批判の有効なアプローチであると考える事が出来ますが、さらにはキムがスーパーヴィーニエンス論法を経て選択した、機能的還元というアイデアそのものを批判するという方法も考えられます。
キムは機能主義をさらに還元主義にまで発展させましたが、そこでは「心はなぜ因果的働きをもちうるか」という問いの答えにもなっています。
キムは心が心特有のものとして何かを動かす力を持たないと述べていることから、キムのこの手法は心的因果の否定であると受け取られても致し方ない事だとは思います。
しかし、キムの立場は、心の働きを積極的に否定しようとしたというよりも「心的因果を認めるにはこうする(心的な働きを機能的に還元する)しか方法がない」という消極的な解決法を提案したのだとみるのが妥当だと思います。
なぜならば、最終的にキムの手法は還元主義かエピフェノメナリズムかの二者択一を迫るものであって、しかし、そこに何の機能も果たさない心の存在を認めるという選択肢を残しているからには、キムはあからさまに心の存在を否定しているとは思えないのです。
機能的還元にしても、結局の所、心的性質には(いづれは一階の性質と同化されてしまうけれども)、二階の性質として居場所が残されています。
サミュエル・サンダーという哲学者は、「存在するとは因果的働きを持つことだ」という箴言を残しており、キムも自らの著書の中で、その箴言を引き合いに出していますが、痛みのピリピリした感じやウソがばれた時の胃が縮み上がるような感じといった「クオリア」、すなわちそれ自体は何の働きももたない心的状態をどう扱うかについての判断は保留しています(ただし、クオリアはスーパーヴィーニエンス論法のディレンマから逃れられないという事が指摘されているのは先に述べた通りです)。
この点から見ても、キムは心的なものそれ自体に対して完全に否定的な態度をとっているわけではないように見えます。
そうすると、キムが提案する機能的還元は、なぜ/どのようにして心的因果が可能となるのかという問いに納得のゆく回答は与えられるものなのでしょうか。
この問いに「YES」と答えるためには、はじめから機能的還元の対象外であるクオリアとは別に、あらゆる心的状態(性質)の中で還元に成功しないものがあるかどうかを調べてみなければなりません。
すなわち、心的性質の因果性が還元によってしか救われないのかどうかが明らかにされなければなりません。
行動に何らかの影響を与えると思われる心的状態のどれかひとつでも物理的性質に還元できないものがある事が判明すれば、少なくともキムの手続きでは、当の心的性質がなぜ因果性を持つのかの説明は成功しないことになります。
このことは、心的性質自体の因果性に不利な方向に働くかもしれない、還元という方針の問題点を浮き彫りにするという効果は期待できます。
ここから、全ての心的性質が「催眠性」や「水溶性」のような機能的性質と同様の性質のしかたで還元できるわけでないことを、中でも行動の説明において重要な役割を果たすと思われる「志向的状態」の機能的還元が必ずしも成功しない事を示してみます。
「志向的状態」とは何ものかに対する態度を表わす心的状態です。
それらが向けられる対象は、「新しいTシャツが欲しい」というモノである場合もありますが、多くの場合は何らかの状況です。
「新しいTシャツを着て街を歩きたい」という場合、欲求は、「新しいTシャツを着て街を歩く」という状況に向けられています。
同じように「宇宙人がどこかにいると信じる」という信念は、「宇宙人はどこかにいる」という状況に対して、その信念を持つ人が同意するという態度を示しており、「明日は洗濯しようと意図する」というのは、「明日洗濯する」という状況を実現させようとする態度をとる事です。
意図や信念や欲求というものは、わたしたちの心による外の世界への働きかけであるという事が言えます。
キムはもっぱら痛みを心的状態の典型例として用いて還元の手順を説明しています。
痛みは、どの物理的性質によって実現されるのかが特定しやすいために、他の性質に比べて機能化しやすいという理由からです。
だからこそ、機能的還元のモデルにうまく当て嵌まったのです。
キムの機能的還元の論証の説得力は、もっぱら痛みを例にした事によるところが大きいです。
痛みとそれ以外(中でも志向的状態)との特徴の違いを考慮に入れるならば、痛みの場合に機能的還元がうまくゆくからといって、同じ事が全ての心的状態に当て嵌まるとは言えません。
痛みに対する反応は大抵、瞬間的であり、例えば指先の痛みはかなりの度合いで手を引っ込める動作をする(その他にも痛みを感じた時にとり得る振舞いは様々ですが、そのパターンはある程度限られています)。
痛みは「患部を引っ込める振舞いを引き起こす物理的性質(一階の性質)をもつという性質(二階の性質)をもつ」という形で、機能によって容易にその性質を特徴づける事ができます。
この意味において痛みは機能的還元の格好の事例となります。
例えば、「水が飲みたい」という欲求がある場合には、どのような形で機能的還元が行われるのかをちょっと詳細に考えてみたいと思います。
回りくどい言い方ですが、「水を飲みたい」という欲求は、例えばそのような「水が飲みたい」という欲求を抱いた人の目の前に水があれば、彼(彼女)は水を飲むというような機能的性質を持つ事になります。
しかし、この水を飲むという性質の機能を実現するのは、脳や神経の持つ一つの性質です。
目の前に水があれば、それを飲ませる働きをするのはこれら脳や神経の性質であり、欲求と看做されるものは、それ自体がそういう行為を行わらせる脳や神経の性質を持っているという性質であるとされます。
つまり、水が飲みたいという欲求は脳や神経が働く事で、水を飲むという行為が実現されるという事です。
そこで、第一章でみたように「Aという性質を持つ」と「Aという性質を持つという性質を持つ」が同一の事柄を指すのは、「Aという性質を持つ」を例えばXとおき、「Xという性質を持つ」という形にしてみれば簡単に理解できます。
このようにして、水を飲みたいという心的性質は、目の前にも水があれば、それを飲むことを可能にするような脳と神経の性質へと還元されるのです。
水を飲みたいという欲求(これをDとします)が、実際に水を飲むという行動を引き起こす機能を持つかどうかは状況に左右されます。
水が飲みたくなった時にたまたま冷たい水の代わりに熱いコーヒーがあっても、Dの持ち主はコーヒーを飲むかもしれません。
この場合、Dは必ずしも行為者に冷たい水を飲ませるという機能を果たしてはいません。
機能的還元の定式化のもとでは、「Dは水を飲む行動を引き起こす物理的性質を持つという(二階の)性質を持つ」となる筈ですが、このとき生じた行動は、コーヒーを飲むことです。
Dは果たしてコーヒーを飲むことによって実現されたと言えるのでしょうか。
「そのときたまたま水がなかったためにコーヒーを飲んでしまっただけであって、正常な状況であれば(水が飲める状況であれば)必ず水を飲むという行動をする筈なのだから、そのような疑問は的外れである」という意見もあるに違いありません。
心について何がしかのことを述べるとき、大抵は心的状態が発生したのが正常な状況のもとであることを前提としたうえで話が進められます。
「正常な状況」とは、誰かに脅されたり、薬を飲まされたりしたなどして判断力を失っているという状況でない、という事です。
以上の事はラテン語でceteris paribus(他の条件が同じならば)という成句で表わされるものです。
身の回りに水がないという状況は、水が飲みたいという欲求が生じたときに、水を飲むこと妨げているという点でceteris paribusではない状況です。
そのような状況では、水を飲めなくて当然です。
そこで、このような場合にこの欲求を抱いた人が、じっさいはコーヒーを飲んだからといって、そのことはDの持つ機能の中身には影響しない、というのがこの反対論者の主張だと思います。
しかし、Dを持つときは常に人はコーヒーを飲むという事がどのような状況においても、すべての人について何度も起こったとしたならばどうだろうか。
この状況の見方には二通り考えられます。
ひとつは、①Dはコーヒーを飲ませる機能を持つとする、もう一つは②Dの機能は単に「その持ち主に飲み物を摂取させる」ということで、飲み物がどういう大正化関係ない、というものです。
①をとった場合、Dに現われた「水」という語は、結果的に「コーヒー」を意味していると解釈されます。
しかし、ある志向的状態を持ったときに心に描いた対象と、それの実現にかかわる対象が異なるという事が何度も起きたならば、ある心的状態がどのような内容を持つかは、それが実際にどのような事態や行動を生じさせたかったによって決まるでしょう。
機能的還元の支持者の立場は、「機能は心的状態の内容とはほとんど関係がないのだから、心的内容など無視してしまえ」という方向に向かうかもしれません。
けれども、心的状態の機能は、それを抱いた人の思い描いた対象や事態が、現実世界の対象および事態とおおむね一致していることを前提にしてはじめて特定できるのだという事に注意する必要があります。
例えば「新しいTシャツが欲しい」という欲求は、新しいTシャツを見かけたときにそれを購入する行動を起こさせるような機能ものものとされるだろうが、実際に何らかの新しいTシャツと対応するものがイメージされることなしに、どうやってこの欲求がこの欲求がその機能を果たせるのでしょうか。
心的内容がなければ、心の機能は形を成しません。
②の選択肢に対してもほぼ同様に応じる事ができます。
Dが実現すべき機能は「喉の渇きを満たすものならば何であれ摂取する」というもので、その後摂取したものが水であってもコーヒーであってもそのことは機能的還元のアイデアを無効にするわけではないというかもしれません。
要するに、ceteris paribusに反するようなイレギュラーな状況でない限り、ある心的状態が生じたときに一定の行動が生じることが言えればいい筈です。
確かに前記のような形でDの機能を捉えれば、水が飲みたいのかコーヒーが飲みたいのかといった内容的性質の違いは意味をなさないかもしれません。
キムは最終的には心的性質は何の因果的働きかけもなしえないと主張する程なので、心の内容的性質について尚の事無意味なのでしょう。
けれども、心の状態が持つ「機能」を取り出すに当たり、その内容的性質(あるものが何を表象したり、指し示したりにするかに関わる性質)を無視できるとは思えません。
Dは水として認識された対象を摂取させる性質を持ちます。
そして、このとき本当に飲んだのが水でもコーヒーでもその機能が変わりがないのだとするならば、端的にコーヒーが飲みたかったからコーヒーを飲んだ状況と水が飲みたかったけれども手元に水がなくコーヒーを飲んだ状況の違いを明らかにする事は、Dの機能も「喉の渇きを満たすものなら何であれ摂取する」としただけでは不十分で、内容的性質は、ただ何らかの内容が浮かんだというだけで、何も引き起こさないかもしれません。
しかし、心的状態の内容の違いが、心的性質の機能と無関係だという事にはなりません。
ある心的状態がどういう機能を果たすかは、それが何を意味し、何を表しているかによって決まります。