心の行方~哲学的、心理学的、科学的に心とは何か~ TOP > 1.閉包性という障壁

閉包性という障壁 一

まず、根本的な事ですが、キムが述べているように、心がそれ自体で因果的な力を持つことを本当に放棄しなければならないのか、大いに疑問なのです。
この問題に「No」と答えるために、多くの哲学者によって試みられた2つのアプローチが存在します。

ひとつは、心的なものの因果的な働きを妨げる大きな要因である〈閉包性〉の制限を、心的原因を許容できるくらいに緩めることであり、もうひとつは、キムが提案した機能的還元が本当に心的因果の問題の解決になっているのかをもう一度問い直す事です。

キムのスーパーヴィーニエンス論法で重要な役割を果たしているのが〈閉包性〉である事は前章で見た通りです。
しかし、それが本当にその原則が心的因果の妨げになっているのかを一度立ち止まって考えてみることが肝要です。
それは、キムが〈閉包性〉から心的因果の不可能性を導き出す際の手続きが適切かどうか疑問の声が上がっているからなのです。

仮にそれらのキムに対する指摘が正しいものであったならば、心的因果が可能であるかどうかもう一度再考する余地が生まれるのです。

前章で述べられていた事は、キムは〈閉包性〉から直接的ではなく、「過剰決定の禁止」と合わせることで、心的なものの因果的排除を導いていますが、しかし、実は、その論証は最初からほぼ因果的排除に近い形の〈閉包性〉が採用されているのではないかという事が指摘されています。

閉包性という障壁 二

これから紹介するのは、トーマス・クリスプとテッド・ウォーフィールド、そしてエリック・マーカスによって取り上げられている、キムのテキストの箇所を引用します。

物理的な因果的閉包性の原則を立てる一つの形は、何か物理的出来事を取り出してその因果的祖先または子孫を追跡しても、物理的領域の外側へ連れ出されることは決してない、すなわち、いかなる因果連鎖も、物理的なものと非物理的なものの間の境界を越えることは絶対にないというものだ。
(中略)この原則を斥けるならば、物理学の原則内での(in-principle)完成可能性を、すなわち、すべての物理的現象の完全かつ包括的な理論の可能性を事実上斥けたことになるのである。
というのも、物理的領域の完全な説明理論が非物理的な因果的動作主を援用しなければならないと述べている事になるからである(キム『物理世界ののなかの心』五十五頁~五十六頁)。

中略の部分の前後を境に、キムは閉包性に関して二種類の主張をしています。
中略の後の部分で触れられている事は、次の(A)の原則です。

(A)物理学の完全性
全ての(物理的な)出来事には物理的に完全な説明がある。

ここで言う物理学は、学校で習うごく初歩的な物理学で構いません。
物理学が(A)で述べられている通りの役割を果たしており、尚且つこの世界がだいたいのところ物理学が教える通りの仕方で存在していると仮定してみます。

閉包性という障壁 三

すると、(A)が意味するのは、或る現象を説明する際に、物理的なものに言及すれば十分であるし、それを完全に余すところなく説明するだけの物理的説明が存在するという事です。

既に述べたように(A)はたとえそれが完全でないとしても非物理的な説明を妨げるものではありません。
この点では、非物理的な原因の存在を否定しない、本来の〈閉包性〉と通ずるところがあります。
しかし、中略の前の部分で述べられているのは、それよりもやや強い主張です。
何故なら、物事の因果的祖先を辿る際に物理的領域の外に出ることは「決してない」と述べています。
これは、非物理的な原因の介入を完全に除外したものであり、〈閉包性〉の本来よりも強い、次の事を意味しています。

(B)非物理的なものの排除
すべての(物理的な)出来事には物理的な原因しかあり得ない。

中略の後では、更に続けて、物事を完全に説明できるはずの物理理論が非物理的なものを原因として挙げなければならなくなったなら、物理学は不完全なものになってしまうとして、あたかも(B)を否定する事によって(A)の真理が損なわれるかのように語られている。
だが、そもそも(A)は、単に物理的な出来事を説明するのに非物理的な出来事を持ち出す必要がないと述べているだけであり、他方、(B)は非物理的な原因の存在をはっきりと拒絶していて、この二つは簡単には結びつけられないのです。

閉包性という障壁 四

クリスプとウォーフィールドは、キムテキスト上に二種類の〈閉包性〉を読み取っています。

一つは、(A)からすんなりと出てくる形の〈閉包性〉、もう一つは限りなく因果的排除に近い形の〈閉包性〉です。
もし〈閉包性〉がはじめから非物理的なものの因果的な力を妨げるほどに強力なものであったら、そもそも心が因果的影響力を及ぼす道は既に閉ざされているのだから、心的因果の問題は生じて来ない筈ですし、その解決法を考える必要もありません。

クリスプらは(B)にあたるもの(先程の引用箇所でキムが〈閉包性〉としてあげているもの)と、本来キムが採用するべきであった、〈閉包性〉と区別します。
クリスプらの理解のもとでこれらの原則を立て直してみると次のようになります。

クリスプ&ウォーフィールド版【閉包性】(CWC)
物理的出来事を引き起こすすべてのものは物理的原因である。

クリスプ&ウォーフィールド版【排除】(CWE)
物理的出来事を引き起こすすべてのものは物理的原因に限られる。

一方、マーカスもまた、キムのテキスト上に〈閉包性〉の解釈の揺らぎを見出しています。マーカスのヴァージョンでは、物理学の完全性は次の形で表わせられます。

マーカス版【完全性】(EMC)
すべての物理的出来事は完全な物理的因果の歴史を持つ

これは(A)を存在物同士の関係に置き換えたものとみることができ、CWCとしての「閉包性」とも対応します。

マーカス版【閉包性】(EME)
物理的出来事は非物理的出来事と因果的交渉をもたず、非物理的出来事によって因果的交渉を持つことはない。

閉包性という障壁 五

クリスプとマーカスとでは閉包性と完全性の定義において違いが見られますが、双方ともに述べようとするところは同じです。
つまり、クリスプとマーカスは、キムは〈閉包性〉そのものを、はじめから因果的排除が可能になるように設定していたのではないかというものです。

もちろん、キム自身は論証の過程において、このリポートで定義された形の〈閉包性〉を用いており、〈閉包性〉の原則だけでは心的なものの因果性が完全に否定されるわけではありません。

それ故に、過剰決定の否定に言及した事がここで重要な意味合いを持ってくることになります。
しかし、キムの〈閉包性〉の理解には二義性が見られ、そのために、論点先取の色合いが濃くなってきたならば、非物理的なものの因果的排除につながるような〈閉包性〉の解釈を斥けることで、心的なもの原因性を取り戻す事が出来るかもしれないのです。

そして、〈閉包性〉の制限をキムが考えていたものよりも緩めることによって、因果的な力を物理的なものに限定する必要がなくなり、その結果として心的なものも物事の原因に為り得ると仮定すると、そのときには、心の哲学の議論において物理主義をとる意義が疑問視されるかもしれません。

閉包性という障壁 六

以上のような疑問に対する、キムを始めとする物理主義者の側の言い分は多分、次のようなものに違いありません。

「物理的出来事が完全な物理的因果の歴史をも持つということは、それが互いに何のかかわりももたない異なる種類の原因を持つ、すなわち過剰決定されているという事です。このようなことがすべての出来事に起こり得るとなると、世界に存在する物理的出来事が悉く過剰決定されることになりますが、そうすると、この世界には、少なくとも結果の数の倍以上の原因が存在するというかなり奇妙な世界観を受け容れざるを得なくなります。
故に、閉包性が本来意味するのは(B)でなければならない」

物理主義者が(B)に近いものを〈閉包性〉として採用するとき、そこにはあらゆる出来事が因果的に過剰決定されている不条理を避けたいという動機があるのです。

しかし、仮に、過剰決定が禁ずるに及ばないものだとしたならばどうなるでしょうか。
マーカスのキム批判はこの点を衝いたのです。

マーカスは、心的なものと物理的なものとの過剰決定がそう簡単に回避できるものではないと指摘します。

まず、スーパーヴィーニエンスのもとで心的なものの基礎となる物理的なものの発生が妨げられる程に物理的プロセスが阻害されれば、心的出来事は発生しないと言えます。

閉包性という障壁 七

以上の事より、過剰決定を禁じたところで、心的因果は物理的プロセスを顧みなくてよいという見解にはならず、逆に、物理的因果を考える時、心的プロセスを顧みなくてもよいという事にはならないのです。
心的なものと物理的なものとの依存関係にあり、依存関係にある二つの原因による過剰決定があり得るならば、それは心的なものが原因となる妨げには為り得ないという事です。

また、過剰決定を禁止した際に心的原因の方が排除されるとも言い切れません。
EМCからEМEが出てくれば、そう言えるかもしれませんが、両者は全く別の原則であり、EМCすなわち通常の意味での〈閉包性〉は心的な原因を完全に排除するものではありません。

心的性質Мが物理的性質Pに、同じく、心的性質М(*)が物理的性質P(*)にスーパーヴィーンする時、P(*)にはそれを生じさせるのに十分な原因Pがあり(〈閉包性〉)、かつP(*)がМとPとに過剰決定されることを防ぐのでしたなら、МはP(*)の原因として機能していないというのがキムの主張でした。
しかし、「Мが生じる生じないに関係なく、Pさえあれば、P(*)が生じる」という事を根拠に、МのP(*)への関与を否定できるか同課は疑問があるとマーカスは指摘しています。
これを認めることは、因果関係の推移性を否定する事につながります。

閉包性という障壁 八

一般にAがBを引き起こし(また何らかの形でBの発生に関わり)、BがCを引き起こしたならば、AはCの原因でもあると認める事が出来きます。
このような関係を「推移性」と言います。
某国の国王である人物の狙撃が彼の死を生じさせるのに十分であり、彼の死は某国の君主制を崩壊させるに十分であったとします。
確かに君主制の直接の原因は王の死でありましたが、「国王の狙撃があろうとなかろうと、国王が死さえすれば君主制は崩壊していたので、国王の狙撃は君主制の崩壊とは何ら関係もない」と言えるでしょうか。

死因が何であれ、国王が死ねば君主制は崩壊するのですから、一見して前述の見方が正しいように見えるかもしれません。
ただ、実際、国王の死をもたらしたのは彼の狙撃である以上、それが君主制の崩壊に何の関与もしないと考えるのは奇妙な事です。

同じようにPがP(*)を生じさせるのに十分であるかといって、МがP(*)の発生に無関係とはならないとマーカスは言っています。
マーカスの主張が正しければ、心的なものが原因として排除されることを導くキムの立場は受け入れる必要がなくなります。

ここで強調しておきたいのは、〈閉包性〉が心の因果性の妨げになるのは、同じ一つの結果にそれ自体で十分である原因が複数存在する事はあり得ないという「因果的排除の原則」と結びつけられるときです。
〈閉包性〉と因果的排除とのつながりを断てれば、素朴な科学館からそれほど離れることなく心の因果性が立証できるかもしれません。