心の行方~哲学的、心理学的、科学的に心とは何か~ TOP > 1.機能的還元の代償

1.機能的還元の代償 一

機能的還元は、スーパーヴィーニエンスのディレンマから解放し、心的因果の問題を解消する代わりにある程度の代償をもたらします。
仮に心的性質を機能化し物理的性質と同一視するとするならば、心的性質が持つ因果的な力は物理的実現者のそれに過ぎません。
つまり、私たちは心がそれ自体で何かに働きかけるという考え方を放棄せざるを得ない、というのがその代償です。

機能的還元はそして、「心」が存在すると考える人にとって更に都合の悪いことは、還元を許さないある種の心的性質は、スーパーヴィーニエンス論法を克服できないのです。
その実例として見過ごせないのは、「クリオア」の存在です。

クリオアとは、私たちがモノを知覚するときの特有の感じの事です。
日本の日の丸の国旗の真ん中にあるものを赤いと感じたり、指先を切ったときのちくちくする感じなどがクオリアの例として挙げられます。

赤色を見る事や痛みを感じること自体は感覚という種類の心的出来事ですが、クリオアはそれに備わる内容的な性質です(日本語では「感覚質」と呼ばれる事もあります)。
クオリアはそれ自体では何の機能を持ちません(断定はできませんが、現在のところこの見方が優勢です)。
それ故に、機能に基づいて物理的な性質に還元する事が出来ません。

2.機能的還元の代償 二

クオリアは、(それを内容としてもつところの)感覚そのものや信念の要求などの志向的な心的状態と同じような形ではできなさそうなのです。

もしかすると、将来的には物理的なものにスーパーヴィーニエンスするクオリアが発見されるか、あるいは従来のクオリアにも機能が認められ、還元への足がかりがつかめるかもしれません。
そうなった場合、物理的性質にスーパーヴィーンする他の心的性質の場合と同じような機能的還元ができるかもしれません。

しかし、そうなった場合、クオリアは、その他の心的性質と同じような困難に見舞われる事は確実です。
すなわち、クオリアの機能を実現するのが何らかの物理的なものであるならば、意識としてのクオリアの難問が待ち受けます。
クオリアは、「意識」のうちに存在します。
もし、クオリアが、機能的に還元されるとしたならば、その意識としての側面は行動にとっては不必要なものとされはしないだろうかという事です。
ここで、不必要と看做されれば、そこからクオリアの消去主義までは一直線かもしれません。

クオリアが意識として生き残る道があるとすれば、それは物理的な因果過程に伴ってただ生じるだけの存在であるとするエピフェノメナリズムにおいてしかありません。

3.機能的還元の代償 三

クオリアは物理的なものとの接点を持たない事から、全てが物理的なものからなるとする物理主義者においては、クオリアが機能的に還元されない限り、真っ先に排除される運命にあると考えられても無理がありません。
尤もクオリアについて物理主義者の中でも意見が分かれています。

そもそも物理主義者とは、存在するすべてのものは究極的には物質であるとする立場の事です。
仮に、少なくとも一つでも物質化されないものが存在するならば、それが物理主義者への批判の突破口になります。
デヴィッド・チヤルマーズなどは、クオリアを何も持たない人物(クオリアゾンビ)や、通常人間が赤を感じる時に青のクオリアを感じるような現象(逆転クオリア)の存在についての想像可能性をめぐる議論をもとに物理主義者への挑戦を試みました。

その一方で、クオリアをどうにかしてモノ化(自然化)しようと試みる動きもあれば、キムのように沈黙を決め込む立場もあります。

クオリアの存在が投げかける問題にどう対処するかは、現在の心の哲学の中心課題となっています。

キムによれば、クオリアを機能化出来ないことを理由にあらゆる心的状態の機能的還元を拒み、還元主義をとらないならば、因果的な力をもたないという条件付きで心的性質を許容する(エピフェノメナリズム)、そのような還元不可能な性質の存在自体を否定するか(消去主義)のどちらかの道を進む事になります。

いづれにせよ、待っているのは、「心の否定」と呼んでも過言ではない立場であり、何らかの因果的な働きをもつものとして心の存在を信ずる者にとっては、心をモノ化する立場に対して敗北する事となるのです。