心の行方~哲学的、心理学的、科学的に心とは何か~ TOP > 1.キムのスーパーヴィーニエンス論法

1.キムのスーパーヴィーニエンス論法 一

キムのスーパーヴィーニエンス論法は、まず、次の前提を置きます。

(大前提)スーパーヴィーニエンスは成り立つか成り立たないかどちらかである。

「AであるかAでないかのどちらかだ」という形式の文は、論理学では「排中律」と呼ばれます。
これは文字通り中間を排しているという意味です。
実際、世の中では、どちらとも決められないようなことに遭遇しますが、古典論理においてこの形式の文は常に正しいものとされます。
右の大前提の文章は排中律の形式に当て嵌まりますので、正しい前提です。

(小前提1)スーパーヴィーニエンスが成り立たないならば、心的因果は理解不能である。

この前提が否定されてもスーパーヴィーニエンスが成り立つとすれば、まだ心的因果を理解できる可能性は残されています。
しかし、キムはさらに次の前提を立てます。

(小前提2)スーパーヴィーニエンスが成り立つならば、心的因果は理解不能である。

この2つの小前提が示しているのは、「心的性質と物理的性質の間にスーパーヴィーニエンスが成り立っても成り立たなくても、心的因果を理解する事は不能」という事です。
しかし、世界の状態は、大前提によってスーパーヴィーニエンスが成り立つか成り立たないかのどちらかであると宣言されています。
したがってこれらから導き出される結論は次の通りです。

(結論)心的因果関係を理解する事は完全に不能である。

2.キムのスーパーヴィーニエンス論法 二

ある問題に解決するためにはその問題の理解は欠かせません。
理解が不可欠な事に目を向ければ、心的因果が理解不可能であるということは、単に「訳が分からない」という段階に留まらず、心的因果の問題解決を完全に拒む者である事が解かる筈です。

心的な性質と物理的な性質の間にスーパーヴィーニエンスが成立しない場合、何故、心的因果が解からなくなるのかは、これまでに延べて来たことから明らかだと思います。
〈閉包性〉が成り立つ限り、物理的ではない心的な性質が、心的な性質と何の関わりも持たずにどうしたなら因果関係が成り立つのか解からないからです。

そこで、スーパーヴィーニエンスが成り立てばどうなるでしょうか。

出来るならば、心が心そのものとして因果的な力を発揮する事を立証したいと望む多くの物理主義者がスーパーヴィーニエンスを受け容れている限りにおいて、この問いの答え方次第では、心的因果の成否が決まってしまいます。

そこでキムが出した答えは、「スーパーヴィーニエンスが成り立っても尚、心的因果は理解できない」という否定的なものでした。
この答えに至るまでには複雑に入り組んだ議論が行われています。

以降、それを一つ一つ解きほぐしてゆこうと思います。

3.キムのスーパーヴィーニエンス論法 三

まず、これから使用する道具立てとして、心的性質М、もう一つの別の心的性質М(*)、Мを実現させる(Мの元と考えてもよいです)物理的性質P、そしてМ(*)を実現させる物理的性質P(*)の4つがあります。

ここでは、МがМ(*)を引き起こすという心的性質同士の因果関係がどのように発生するのかを考えてみます。

まず、心的なものが心的なものをこき起こすという事は解かると思います。
例えば、こぼれた赤いインクを見て血を連想する事も、カレンダーを見て仕事の締め切りを思い浮かべるのも心―心間の因果関係であり、このような例は日常生活を営めば無数にある事です。
そこで、問題となっている事は、そのような心的なもの同士の因果的なつながりが何故生じるのかというものです。

МとМ(*)は物理的でない性質です。
非物理的なもの同士の因果関係を認めるという事は、何か超自然的な力を信ずるのと同じ事になりそうな印象を与えます。
そこで改めてМとМ(*)に目を向けてみると、それらは物理的性質PおよびP(*)にそれぞれスーパーヴィーニエンスしています。

ここで、〈閉包性〉とはどのようなものかを考えます。
〈閉包性〉は物理的なものにはそれを生じさせるのに十分な物理的な原因が存在するという事を述べる原則の事です。

4.キムのスーパーヴィーニエンス論法 四

先述の〈閉包性〉(物理的なものにはそれを生じさせるのに十分な物理的な原因が存在するという事を述べる原則)により、実際、P(*)を生じさせる十分な原因としてPが存在しています。
そこで、МとМ(*)の間で因果的交渉が可能ならば、その事はМおよびМ(*)の基盤(それらがそれぞれスーパーヴィーニエンスする性質)である物理的性質PとP(*)との間の因果的交渉によるものだと考えられる事が出来ます。

この事は、日常的な例を見ればわかると思います。
例えば、頭痛を感じたならば、薬が欲しいという欲求を引き起こした場合を考えてみます。
この事を物理主義者に言わせれば、この因果関係は見かけ上のものとなります。
頭痛の感覚と薬への欲求との間にあたかも何らかのかかわりがあるように見えますが、頭痛の元である身体の異常と、薬が欲しいという欲求を引き起こす脳の働きに因果関係があるからです。

このような物理レベルでの因果関係なしに頭痛と薬の関係は語れないし、少なくとも物理主義の立場に立つ限りには、心的なものを対象にする因果関係を主張する事は出来ません。

このようにして心的性質が因果的な力を発揮するためには、その性質が何らかの物理的性質にスーパーヴィーニエンスという形で依存し、その依存された性質(基盤性質)によって因果的な力が発揮されると、少なくとも(非還元的)物理主義者にとっては納得しやすいのです。

何とも当たり前のことを述べるのに心的なものと物理的なものとのスーパーヴィーンニエンスな無依存関係とし知面倒くさい論証を経ないと学問的には駄目のようですね。

5.キムのスーパーヴィーニエンス論法 五

心的性質Мには物理的基盤性質Pが、同じく心的性質М(*)には物理的基盤性質P(*)があり、МはPに、М(*)はP(*)にそれぞれスーパーヴィーンし、PはP(*)を生じさせる事によりМ(*)を生じさせるという、スーパーヴィーニエンス因果の形が出来上がります。

М(*)の発生には心的なМばかりでなく物理的なPも関係しています。PがP(*)を生じさせなかったならば、М(*)もまたもまた生じなかったからです。

このような関係においてМ(*)が生じるには、

①МがМ(*)を生じさせる、
②МがP(*)を生じさせることによって(それはスーパーヴィーンしている)М(*)を生じさせる、
そして、
③PがP(*)を生じさせることによって(それはスーパーヴィーンしている)М(*)を生じさせる、

という三種類の経路が考えられます。

この中で、心的性質はそれがスーパーヴィーンする物理的性質のおかげで因果的な力を持つ、という、スーパーヴィーニエンスをもとにした因果関係の発想からすると、PやP(*)の力を借りない①の経路は候補から真っ先に除外される筈です。
すなわち、МからМ(*)引き起こす関係は実質的にあり得ない事になります。

そうすると②③の経路が候補として残ります。
つまり、М(*)がどのように発生するかを考える時に、今度は、それがスーパーヴィーンするところのP(*)がどうやって生じるのかが問題になるのです。

さて、この先はどうなるのでしょう。
非還元主義的物理主義者を納得させる心的なものと物理的な物の関係性をどう折り合いをつけるのか見ものです。

6.キムのスーパーヴィーニエンス論法 六

②と③の可能性が残っているという事は、P(*)の原因の候補としてМとPの二つが残っているという事です。
このように一つの結果にそれぞれ別個の複数の原因が存在する状態を「因果的過剰決定(causal overdetermination)」と言います。
ここで、P(*)は明らか二つの原因によって過剰決定されているように見えます。

ところが、このような事例を許すと、因果的過剰決定が他の物理的、非物理的を問わずに、全ての事が起こる可能性が生じてしまいます。
因果関係を想定する場合、その基本となるのが、それが例え複数の原因、複数の結果の事例を考えるとしても、原因と結果の一対一の関係です。
仮に一つの結果に複数の原因がある事が当たり前になってしまうと――原因の候補が心的因果の事例のように必ずしも二種類だけとは限らない事に注意――、原因を追究する試みはほぼ無駄な事になってしまいます。

そこで、因果的過剰決定にならないような道を選択する事が求められます。

②と③のどちらを取るのか。〈閉包性〉を受け容れて、尚且つ、過剰決定を避けようとするならば、排除されるのは当然②になる筈です。
真の因果関係はPとP(*)との間に成立し、МとМ(*)との因果関係は、見かけ上のものに過ぎないと判断せざるを得ないのです。

これは当然の選択と言わざるを得ません。
一つの結果に原因がいくつも存在していたならば、此の世界は滅茶苦茶になります。
当然③が選択されるのが自然でしょう。
そこでカギなのが、МとМ(*)とが見かけ上の因果関係でしかないという事です。

7.キムのスーパーヴィーニエンス論法 七

ここまでの事をふりかえると、一つの疑問が湧いてきます。
それは「МはPにスーパーヴィーンしていてPとは完全に独立していないのだから、P(*)は過剰決定されていないのではないのか」という疑問です。
確かに因果的過剰決定は「同じ一つの結果に対してそれぞれ別個の複数の原因が存在する状態」であり、また、МとPとはスーパーヴィーニエンスという関係で結ばれている以上、完全に別々とは言えません。

しかし、例えP(*)が過剰決定されていないとしても、МのP(*)に対する因果的な力を保証される事を意味はしません。

〈閉包性〉によれば、P(*)にはそれを生じさせるのに十分な原因Pが存在します。
Pだけで十分であれば、それ以外に、物理的でないМが原因としてP(*)の発生に関与する必要はない事になります。

P(*)がいかにして生じたかを考える時、〈閉包性〉と過剰決定を考慮すると、②の経路は選ぶことがありません。
しかし、〈閉包性〉それ自体は、実のところ、非物理的な原因を完全に妨げるものではありません。
不十分な――結果を生じさせるのにそのもの以外の何かを必要とするような――形であれ、非物理的な原因が存在する事に関しては、〈閉包性〉は何も述べていません。
しかし、〈閉包性〉を認め、尚且つ、因果的過剰決定を認めないと、これまた、話は違ってきます。

8.キムのスーパーヴィーニエンス論法 八

ここまでの流れを簡単に振り返ると次のようになります。

(a)物理的なものには心的な原因と物理的な原因がある(因果的過剰決定)
       →
(b)物理的なものにはそれを生じさせるのに十分な物理的原因がある(〈閉包性〉)
       +
(c)いかなるものも独立した複数の原因を持ってはならない(過剰決定の禁止)
       →
(d)物理的なものを引き起こすのは物理的な原因のみである(因果的排除)

因果的排除の考え方からすれば、例え心的な性質がそれを実現する物理的性質にスーパーヴィーンする形で何かを引き起こす力を得たとしても、もし物理的性質自体が、それだけで何らかの結果を引き起こす力を持つならば、それにスーパーヴィーンする心的性質は余分なものになってしまう事になります。

〈閉包性〉は、過剰決定の禁止と組み合わせると、心的なものを因果関係から排除してしまうほどの力を持つものです。
Pさえあれば、P(*)を生じさせ、それによってМ(*)を生じさせるのに十分であるならば、非物理的なМが果たすべき因果的な役割は何も残っていないように見えます。
ここで、本節の始めに紹介した小前提2に辿り着くのです。

心的性質では何かを引き起こす事は出来ない。
それが因果的な力を持ち得るのは物理的なものと結び付く事によってである。

やっと誰もが理解できる結論へと到着したようです。
心的な性質を持つモノは、頭の中でのみ起承転結が展開されるのであって、心で念じて何かの物質を動かす事は超能力者でない限り無理です。

9.キムのスーパーヴィーニエンス論法 九

心的性質と物理的なものは、「心的性質は物理的性質と同一である」という以外の形で結びついていなければなりません。
心的性質と物理的性質が同一であるとするならば、確かに心的因果を単純に説明できますが、その代わりに、心的性質が果たして心的なものとして結果を生じさせているのかという疑念に悩まされる事になります。
物理的性質とは別にありながら、それと結びつく事により心と行動との因果関係を可能にする関係は、目下のところスーパーヴィーニエンスしかありません。

この意味では、スーパーヴィーニエンスが成り立つとしても〈閉包性〉と過剰決定の禁止から心的なものの因果的排除が帰結するならば、心的な性質はそれ自体としてはやはり因果的な作用をなし得ません。

今度は、心的な性質に心的なものとしての力がないというだけでなく、心的性質が、スーパーヴィーンする基盤としての物理的性質だけで行動が生じるのに十分であるならば、心的な性質の力は不必要とされかねません。
これが、スーパーヴィーニエンス論法があらわにする心的因果のジレンマです。

この「スーパーヴィーニエンス論法」は、物理主義に立ちながら心的因果を立証する者たちすべてにとって深刻な挑戦であり、このジレンマをいかに回避するかが課題となってくるのです。

ここで、非還元的物理主義者が陥るジレンマが語られています。
心的なものがスーパーヴィーニエンスする事では、心的因果が立証できないのです。
つまり、あらゆる出来事が私無しに(私の心的なもの無しに)生じるので、私が世界から疎外された存在として立ち現われてくるというジレンマに非還元的物理学者は陥る危険にさらされているのです。