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3.キムによるスーパーヴィーニエンスの定義 一

ディヴィドソンの答えは、一方が他方に還元されるというもので、両者が実は、同じものだったというのではなく、むしろ、心的特徴(性質)のあり方が物理的特徴(性質)のあり方に左右されるような関係なのです。
この点にこそ、物理主義を捨てずに心的なものの特性を認めたいと願っている哲学者の溜飲を下げるものだったのです。

尤もディヴィドソンと相前後してキムが様々なスーパーヴィーニエンス関係を分類・整理し、心身問題における役割と、その解決にあたっての有効性を明確にしたことも、スーパーヴィーニエンス概念が普及した大きな要因になっています。
ここからはキムの定義によるスーパーヴィーニエンスを見て行こうと思います。

スーパーヴィーニエンスは普通二通りの仕方で説明されます。
ひとつは性質の違い、もうひとつは性質を持つか持たないかに注目したもので、「一方の性質のあり方が他方の性質のあり方で決まる」という事を別の彷徨から解釈した結果なので、どちらを参照してもよいものになっています。
ここでは、性質の違いに基づいた定義を説明します。

スーパーヴィーニエンスには強いものと弱いものがあります。

【弱いスーパーヴィーニエンス(Weak Supervenience)】
AがBにスーパーヴィーンする:ある可能世界Wおよびそこに属する個体XとYについて、もしXとYが性質Bについて区別できなければ、性質Aについても区別できない。

【強いスーパーヴィーニエンス(Strong Supervenience)】
AがBに強くスーパーヴィーニエンスする:任意の可能世界W1とW2、およびW1に属する個体XとW2に属する個体Yに関して、XがYと性質Bについて区別できないのであれば、性質Aについても区別できない。

ここで言う「可能世界」というのは、大まかに言えば、私達に簡単に想像できる世界の事で、また、それを想像する際に論理的な矛盾がない世界の事です。
例えば私が(現実では男性である)女性であるような可能世界や、人間が三百歳まで生きるような可能世界などさまざまなものが思いつきます。

それらの可能世界では、私が女性であったり人間が三百歳まで生きることよって何の論理的矛盾は諸寺ません。
そのように想像された任意の世界Wに存在するXとYという二つのものについて、それが持つ性質Bに関して違いがないならば、性質Aに関はても違いがないというのが弱いスーパーヴィーニエンスの関係です。

それでは何故弱いのか。
弱いスーパーヴィーニエンスは、あくまで特定の可能世界の内部における性質しか言及しておらず、Wと異なる可能世界では、当然ですが、性質Bにおいて違いがなくても性質Aにおいて違いが出て来る可能性は否定できません。

他方、強いスーパーヴィーニエンスでは、「性質Bにおいて違いがないがないならば性質Aにおいても違いがない」という事が、任意の異なっている可能世界にまたがって成り立っているので、性質Aは性質Bに対する依存度はより強くなっています。

ここで「おなかがすく」ということを例としてスーパーヴィーニエンスがどういう関係なのかを見て行きます。

ある人が「おなかがすいたなあ」と呟くとき、その人の心の状態が持つ性質が、脳の持つ性質にスーパーヴィーニエンスするとはどういう事なのでしょうか。

それは、例えば空腹中枢が活性化するという特定の脳の持つ性質にある人なら誰でも「おなかがすいちなあ」と心的性質を持つ状態にある事になります。
脳も含めて私達の「空腹中枢」に相当する部位が活性化したとき、例えば哀しい感情が生じる生物が存在するかもしれません。
それはその可能世界全体における傾向であり、決して一生物に限った事ではないとします。

私達とその可能世界の生物とを比較したとき、「おなかがすく」という状態が持つ心的性質と脳の物理的性質とは、後者に違いがなければ、前者に違いがあるとは相互関係には為りません。
つまり、「おなかがすく」という状態を持つ心的性質は、その同じ状態が持つ脳の物理的性質に弱い形でスーパーヴィーンするが、両者の間には強いスーパーヴィーニエンスは成り立っていません。

4.キムによるスーパーヴィーニエンスの定義 二

ある物理的性質が生じる時に必ず生じる心的性質が可能世界によってバラバラでは、非還元的物理主義者たちが理想とする心的なものと物理的なものとの関係付ける事は、そもそも不可能です。

その関係づけというものは、還元や同一性などの心的なものを物理的なものに完全に同化させない種類のものです。
そこで、もう少し強いスーパーヴィーニエンスが非還元物理主義者の理想となります。

強いスーパーヴィーニエンスの下では、現実世界に住む私と、何処か可能世界に住む人物を比べたとき、私とその人物が同じ脳の性質を持つならば、空腹感という心的性質を持つ事になります。

しかし、強いスーパーヴィーニエンスはね余りにも強すぎるために、心的なものの自立性を脅かしてしまいます。
空腹感の例で言えば、どんな生き物でも脳が特定の性質を持たないと、「空腹感」という心的性質を持つことがあり得ないとするならば、空腹感とは脳の特定の性質にという次第になってしまいます。

それに加えて、空腹感によって引き起こされる様々な結果は、実際、脳の特定の性質以上のものでないならば、空腹感に固有の存在意義があるのかどうか疑問です。

しかし、字際のところ、心的性質と脳の性質の間には強いスーパーヴィーニエンスは成り立っていません。

5.キムによるスーパーヴィーニエンスの定義 三

前述の可能世界の生物と私と比較されましたが、その可能世界の生物の身体構造が私たち人間と全く違ったものならば、私たち人間と脳から神経への信号伝達の仕組みが全く違うかもしれません。
仮にそうだとすると、あらゆる可能世界に跨って、ある脳の性質が現われた時、必ず空腹感という心的状態にあると考えるのは不可能です。

更に付け加えると、その場合、弱いスーパーヴィーニエンスすら成り立っていないかもしれません。

何か食べ物が食べたくなる状態を「おなかがすく」として認識できない幼児の場合、たとえ空腹中枢が働いても「おなかがすいた」という内的性質を持つ状態は発生しないかもしれません。
さらに複雑な意味内容を持った信念や欲求糸などの場合は、より困難な状態になる可能性大です。

それというのも、それらの内容は、その場の状況や社会的なルールなど、物質化できない諸要因の影響を受けるためです。

ここで注意しておきますが、物理主義者は決して心的性質と物理的性質のスーパーヴィーニエンスが現実に成り立つとは考えていません。
物理主義者は、スーパーヴィーニエンスか物理主義が成り立つ最低限の条件として要請しているに過ぎないのです。

もう一つの条件は、つまり、物質的なものは究極的にそれを生じさせるのに十分な物理的原因があるという事です。

6.キムによるスーパーヴィーニエンスの定義 四

然しながら以上のように心的因果に取り入れられたスーパーヴィーニエンスでさえも、積極的に心の因果性を主張したいものにとっては不満が残るものでしかありません。
スーパーヴィーニエンスは、心的性質と物理的性質の二つの異なる性質の変化の仕方に一定のパターンがある事を示すのみで、何故そのようなパターンが成り立つのかの説明を与えるものには為り得なかったのです。
また、そういうスーパーヴィーニエンスを用いても非還元的物理主義は救われないのではないか、と、そして、例えスーパーヴィーニエンスを用いても、心的なものの因果的効力を立証した事にはなり得ないのではないかという批判にさらされてきました。
そして、それを批判を論証の形で明確にして見せたのがキムの「スーパーヴィーニエンス論法」なのです。

ここまでが、スーパーヴィーニエンスの導入の部に当たります。

以上に示されている事は、心の問題を心的性質と物理的性質の二通りに分けて、その因果的な関係、つまり、スーパーで万引きをした例をここで再び持ち出すと、因果的な関係とは、スーパーでチョコが欲しいというのが心の因果の発端になり、しかし、お金がないというのが物理的な性質で、そこで万引きをするというのが物理的なものである事となり、万引きをして後悔するというのが心の因果的なものの帰結です。
さつまり心の因果的というものは、チョコが欲しい→万引きをする→万引きを後悔するという因果関係になっています。