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6.マクローリンとディヴィドソン

マクローリンによれば、因果関係の在り方は次の二つがあります。

(C1)因果関係は出来事の間に成り立ち、どのように記述しようとも影響は受けない関係です。
(C2)出来事がほかの出来事と因果関係を持つのは、それが持つ何らかの性質によるというものです。

マクローリンはディヴィドソンの立場が(C2)を否定し、心的性質が何かを引き起こす事に関与するという事を否定する事で、結果として心的出来事自体が因果関係を持つことを封じていると指摘しています。
ディヴィドソンが(C2)を否定しているのは、ディヴィドソンにとって、因果関係を持つのは個別的な対象の出来事だからです。
つまり、ディヴィドソンは、(C2)は(C1)と両立不可能だと看做しているという事です。

因果関係は、出来事はどのように記述されようと変わるものではありません。
出来事の記述が、出来事が持つ性質に着目してなされるのであれば、出来事がどのように記述されようとも、どのような性質を持つものと看做されても、に置き換えられるのです。
以上のように置き換えて考えてみますと、因果関係に左右されないという事は、つまり、ある出来事が原因になるかどうかが、決してその出来事が持つ性質には左右されないという事に繋がってゆきます。

出来事を原因足らしめているのは、あくまで結果となる出来事との間に成立する一定の関係です。

以上がティヴィドソンの考え方ですが、しかし、(C1)で述べられている因果関係が、その関係を持つ出来事の性質によって成り立つとすれば、(C1)と(C2)は、間違いなく両立します。

例えば、(C2)で言及されている性質が、心的性質を指し、尚且つ、(C1)と(C2)が両立すると、心的出来事も因果関係を持ち得る候補に含まれますので、その時は心的出来事は問題なくその因果性を立証できるように思います。

マクローリンの狙いは、(C1)と(C2)が両立である事を示して、心的出来事がその心的性質によって因果関係を持ち得ることを立証しようとしたことにあります。
ここではマクローリンの論証は詳しく紹介はしませんが、マクローリンの指摘が非法則性一元論が抱える大きな困難を浮き彫りにしています。

しかし、非法則性一元論が持つ不安はマクローリンの指摘ばかりではありません。
心的な性質は、物理的な過程につき従うだけで、そのプロセスに何の関係も及ぼさないのではないかという不安が生じるのです。

ある出来事は特定の心的性質と物理的性質を持ちます。
そして、出来事の原因と結果との因果的なつながりを担うのは、出来事が持つ物理的な性質の方ですが、その物理的性質と心的出来事と心的なものにする性質との間には――非法則性一元論を受け容れる場合――何の因果的なかかわりもありません。
それは、心的性質と物理的性質は、たまたま同じ心的出来事の中に共存しているに過ぎないからです。また、その出来事には他の様々な出来事の心的性質が存在しうる筈です。

ここまでで、何の事が書いてあるのか解からない人は、心的出来事と心的性質と物理的性質が巧く捉えられていないからだと思います。

心的出来事とは、例えばスーパーでお金が足りなくて万引きをしたときの心の出来事です。
つまり、万引きしたくなったことが心的出来事です。
そして、心的性質は、心の性質の事で、万引きをして後悔した事などが心的性質になります。
そして物理的性質は、万引きをしたという行為の事です。